長岡亮介のよもやま話206「数学の面白さ(続)」

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 数学の楽しみということで、前回少し言いそこなったところを補充したいと思っています。それは、「数学の本当の面白さというのは、現代数学のような先端的な話題を知らないと話にならない」という考え方に対してです。確かに現代数学には非常に深い、意外な面白さがあふれるようにあり、それを知らないということは、数学の持っている重要な側面をすっかり無視してしまうというリスクがあるのは事実です。しかしながら、そういう本当の意味での数学の面白さを理解するためには、当然のことながら、数学に対してそれなりの努力をする。自分の時間を数学の勉強に大きく割くといういわば犠牲が付きまとうわけですね。数学が楽しくなってくれば、その犠牲は決してつらいものではなく、犠牲そのものが甘味なもの、甘いもの、あるいは醍醐味っていう言い方もあるかもしれません。本当のご馳走になるわけでありますが、その醍醐味がわかるまでの時間は少なくともかなりつらい時間を過ごさなければいけない。これも確かなことであるわけです。世の中に非常に才能のあふれる人がいて、そういう醍醐味を感ずるところまで、他の人が10年かかる、あるいは15年かかるというところを、3年とか4年で済ませてしまう。またたく間に初等数学の部分を理解し、近代数学の成果を本当にスポンジが水を吸収するように吸い取り、いきなり19世紀以降の現代数学の世界へと入っていく。現代数学というのは19世紀から始まると言いましたけど、本格的な展開が起こるのは、20世紀、あるいは21世紀に入ってからのことであります。最近の現代数学の歩み、その面白さを理解するためには、普通は大学院の後期課程いうぐらいまで頑張らなければならない。その頑張る努力も分野に限定して頑張るっていうのが一般的な人であって、天才的な人は、本当に一握りだと思いますが、数学の全分野に関してそのレベルに、大学院に入るか入らないかというくらい若いうちに到達してしまうんですね。

 これは素晴らしいことでありますが、みんながそれができるわけではないし、全員がそれができるということが、世の中にとって理想的なこととは私は思いません。その人なりに数学が楽しいということがわかる。これが最も重要なことではないかと思うんです。人によって何が面白い、何が正しいということは、ずいぶん違うと思うんです。例えば小学校低学年の子にとっては、本当に意味のないような計算問題を短時間で全部丸がもらえるということだけで嬉しいかもしれない。確かに正解を出すことができるっていうのが一つの能力でありますから、その能力の証明として、意味がある。しかし、小学校高学年、あるいは中学校になっても、出題された問題に正解を答えて丸がもらえる。だから数学が好きだと言っている子供が少なくないということを聞きますが、それはちょっと残念な気がします。ある意味でそれは早熟の天才の反対で、あまりにも大器晩成すぎるという気がするんですね。人間は中学生くらいになったらもっと生意気になっていい。高校生だともっとさらに生意気になっていい。大学生だった大いに生意気になってほしいと私は願っているのですが、最近の若い人は中学生、高校生はおろか大学生になってもとても幼稚っぽい。つまり、小学校の低学年のような○✖️式の問題が解けて嬉しいと思っている人が、数学好きと自分で自称する人たちの中にさえ少なくないということです。それはあまりにも残念ですね。

 「数学は正解があって、それが言えるようになること」、これが大切なことなのではない。むしろ、私に言わせれば、「誤解をする。誤答をする」、そういうことの中にさえ深い喜びがある。自分が間違っている、その間違っていることに気づかずに、あくまでもそれが正解だと思い続ける。しかし、ある時ハッと、それはもしかしたら自分の早とちりだったかもしれないなと気づく。そういう瞬間が訪れるならば、その誤解が誤解であったということに気づくならば、それはその人なりの正解に向かっての素晴らしい前進であり、正解を人に聞いてわかったような気になるということに比べれば、私は遥かに大切なことではないかと思います。世の中には、微積分が学校数学の中で最高峰だと思っている人がいますけれども、それは誤解で、高等学校までに学ぶ微積分というのは、英語ではCurriculus(カリキュラス)っていう言葉で呼ばれるくらいなもので、カリキュラスというのはCalculation計算という言葉と近い言葉なんですね。全く同じではないんですけど、所詮カリキュラスはカリキュラスでしかない。

 大学に行けば、やがて微積分学っていうのを勉強します。そして、微積分を支えていた論理的な土台というものを精密に再構成するという19世紀の数学者たちが携わっていた仕事を自らに課すということになるわけですね。多くの大学生がそこで挫折してしまうという話をよく聞くんですけれども、ε-δ論法という言い方で我が国では有名な極限論法、それがわからないというんですね。εというのは、小さな量を表すときによく使う文字でありまして、そのεというのは、ラテンアルファベットで言えば、多分έ、アイウエオの“エ”です。ABCDEのEです。エラー誤差っていう言葉の頭文字のEに由来して、ギリシャ文字のεを使う習慣があります。δっていうのは、distance距離の頭文字のDですね。ε-δっていうふうに、ギリシャ文字で書くと少し高尚な気がするかもしれませんが、それはギリシャ人にとっては全然何でもない話でありまして、ごくありふれた文字なわけですね。ラテンアルファベットに言い換えれば、ε-δ論法というふうにみんながありがたがって、大学でありがたそうに教えている先生がいるっていうことを、クーラントという数学者が『What Is Mathematics?』という彼の名著の中で、それを非常に厳しく揶揄しています。「大学の先生の中には、学生たちがわからないような講義をしなければ自分たちの数学が高尚でない、高尚であると思ってもらえないとでも思っているかのように難しい講義をする傾向がある。実に馬鹿馬鹿しいことである。」そういうニュアンスのことを書いているのですが、大学の数学といっても、本当にわかってしまえば大したことはない。でも本当にわかるまでにかかる時間というのは、初等数学とは桁が違うわけです。それでも、その桁が違うものの中でもある範囲に限定すれば、それが理解できないっていうわけでは決してないですね。ε-δ論法に関して言えば、ラテン文字に置き換えればただのe-d論法というだけですから、急に難しくなくなる、高尚さが吹っ飛ぶ、そういう話だと思いませんか。そして私が今申し上げた「エラーとディスタンス」、この概念がこの論法を支える基本的な概念であるということがわかるだけで、ε-δ論法も非常に身近なものになると思います。

 ε-δ論法の難しさは、ε-δというギリシャ文字にあるわけではなくて、それをラテン文字e-dに置き換えたところで本質的に簡単になるわけではなくて、“任意の”と、“存在する”という高等学校であまり詳しくやってない論理学、これはアリストテレスの時代から既に議論されているものなんですが、その論理学を数学的にきちっと体系化されるのは19世紀になってからなんですね。そのことをきちっと踏まえないと、なかなかその方が使いこなせるようにならないというだけの話でありまして、古代ギリシャの哲学者たちもそのような言葉遣いを既に知っていた。例えばその中で最も有名なのはアリストテレスという哲学者でありますけれども、そういうことを考えるならば、本来論理学に関してきちっと勉強してさえいれば、本当はどうってことはないですね。本当はどうってことないというところで、大きなつまずきにあって、全体がわからなくなってしまっているっていう人が多いのは残念です。

 私は、そういうちょっとした高級なことを勉強することも悪いことではありませんし、もっと本格的に難しいことに挑戦するというのも素晴らしいことだと思います。と同時に、自分が小学校のときから不思議だと思っていた、例えば、分数の割り算は割る方の数を分子と分母を逆にして掛け算に直せるんだと。それってどうしてそうなのというふうに自分自身に質問して、それに対して答えが書ける、あるいは答えが自分で述べられるというところまで理解が進めば、それはそれで素晴らしいことだと思うんですね。つまり、数学的な理解というのは、高度な数学になればなるほど難しくなるのは事実だし、高度なものであればあるほどそれを征服したときの喜びが大きいというのも事実でありますが、「高度なものでなければ数学でない。高度なものでなければ喜びでない」というのは、明らかにとんでもない間違いだと思います。私はものすごく身近な世界に、自分なりの納得の世界を発見する。これはとっても素晴らしいことだというふうに思います。

 現在では難しい音楽がたくさん作曲されています。私はこのよもやま話の中でも、バロックと言われる時代よりも前の音楽も紹介して参りました。何とも単純な音楽でありますけれども、実にそこに深く崇高な気持ちを引き出すような旋律があるということを、発見してとても感動する。私自身が感動しているんですけど、そういうことがある。そういう、現代音楽と比べれば単純そのものでありますけど、そういう単純そのものの中に潜んでいる深い精神性、それを発見するというのもとても楽しいことではないかと思うんですね。数学はそのようにして、ある意味で全ての人に対して門戸を開いているということです。現代数学を直感的な言葉で理解する。その気分がわかる。これもとても面白いことではあると思いますし、そうではなく現代数学をより本格的にきちっと教科書で勉強する。これまた素晴らしいことであると思います。それと同時に、現代数学とは縁もゆかりもないくらい初等的な数学の世界の中にある、ある種の、人の発見を待っている秘密、それを自分なりに発見する。これも数学の素晴らしい点だと私は考えています。

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