長岡亮介のよもやま話205「数学の面白さ」

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 今回はちょっと趣向を変えて、数学の面白さについて、お話してみましょう。数学は非常に多くの意味で、面白い。その面白さの理由には、数学の持っているあらゆる応用可能性に対して開かれている、ということが挙げられると思います。皆さんの中には、第二次世界大戦で連合軍が、ヒトラーのUボートの攻撃などを避けるために、暗号を解読していた。ドイツは、エニグマという非常に優れた暗号装置を持っていて、その装置を利用して、数学の理論がわからない人でも容易に解読できない暗号を作り出す。そしてそれを読み解くということができていたわけでありますけれども、アメリカの天才的な数学者が、コンピュータを使うことによって、あるいはコンピュータを開発したというべきですね。それによって、エニグマを解読するということに成功しているわけです。この話はあまりにも有名ですので、映画にもいろいろとなっているところでありますが、暗号の解読ということと、数学の間にどんな関係あるのか。普通はちょっと想像がつかないかと思います。

 数学は、計算したり、物を測ったり、すぐその公式を正しく運用する手段を教える勉強だと思っている人は、世の中に少なくありませんね。数学にそういう側面が全くないというわけではありませんけれども、大部分の数学は、そのような計算とか測量とかということとは全く無関係なんですね。数学というのは、あえて定義するとすれば、数の学問でも何でもなくて、「物事の中にある論理的な構造を、何とか今までの人が見たことのないような形で表現する」ということに一生の大事をかけていると言ってもいいくらい、今まで見たことのない風景、その隠れている風景を発見する学問であると言っていいと思うんです。その隠れている風景を誰でもが発見できるというわけでは必ずしもないわけで、本当に森の奥深く潜んでいる深遠な関係を洞察する。これは本当に天才に恵まれた人だけにできることであります。

 凡庸な数学者たちは、いわば一皮めくればわかるという程度の本当に底の浅い発見をしては喜んでいるという程度のもので、一世紀に1人とか2人とかというふうにしか出てこない本当に偉大な天才がものすごく深い謎に包まれていた隠れた関係を見出してくれるわけですね。凡庸な数学者は、アマデウスという映画で書かれたモーツアルトを賛美したサリエリの言葉を使えば、言ってみれば神が与えたアマデウスモーツァルトの音楽の素晴らしさを称賛するという役割を果たす。そういう悲しい存在であるかもしれませんが、それはそれでまた楽しいことであるわけでありまして、自分なりに重要な発見というものを、自分の言葉で語ってみるということですね。それはものすごくよくできる人から見れば、ただ言い換えただけじゃんということになってしまうかもしれません。本質的な言い換えになっているわけではない。でも、自分なりに自分なりの言葉で、その新しさ、すごさ、深遠さというのを語ることができるというのは、数学の大きな魅力であるわけです。

 今の学校教育がつまらないのは、学校教育のレベルの初等数学にさえ小さな発見はゴロゴロと転がっているわけですが、そういう発見をするということの喜びから、子供たちが完全に遠ざけられてしまっている。逆に言うと、「数学は解法を暗記することだ」と教える先生もいるということでありますから、発見と正反対でありますね。私は、「数学における発見というのがそんなに別にすごいことじゃない」ということを表現するにあまり適切な例であるかどうかわかりませんが、音楽の演奏をとるとわかるんじゃないかと思うんですね。モーツアルト、ベートーベン、そういった偉大な作曲家が書いた楽譜は残っているわけです。そして、その楽譜通りに弾くというのが、言ってみれば音楽の最初のレッスンでありましょう。音楽の最初のレッスンがそのような音楽を弾くためのまた練習曲というもので始まるのかもしれません。でも、ともかく偉大な作曲家の音楽を自分なりに演奏するというふうにしたときに、楽譜通りに演奏してるんではないんですね。楽譜に書いてあることは守らなければいけないですけど、楽譜に書かれてない膨大な情報がありうる。それが音楽の解釈というふうに一般に言われているものでありますけれども、「楽譜が決まれば音楽が決まる」と考えている人はぜひ、いろいろな演奏家による同じ楽譜の演奏を聞き比べてみる、ということをやってみると面白いと思いますね。

 最近私はYouTubeで、私の大好きなゴールドベルク変奏曲というバッハの、昔は退屈だと言われた音楽でありますが、それが20世紀の天才的なピアニストを通して、ゴールドベルク変奏曲のすごい深みが明らかになっているわけです。有名なピアニストの曲を聴くこともできますが、日本を代表する著名な女性のピアニストは、自分の演奏と楽譜を重ねて、YouTubeにアップロードしている。楽譜通りに弾くかのように弾いているわけでありますけれども、それは決して機械音楽のようになっているわけではなく、「そうか、楽譜を見て、こういうふうに弾くこともできるんだ」ということを、私など素人にもわかるように演奏してくれています。「楽譜と演奏」というふうに例えれば、数学における「解釈、創造、発見」ということも、決してものすごいことでは必ずしもないということ。そのような楽譜を自分なりに理解して弾くということができるようになると、今度は自分で作曲をしてみようとか、アレンジをしてみようとか、そういうこともできるようになるということです。多くの数学者がやっていることは、言ってみれば偉大な数学者がやったことを、そのアレンジしているという程度の仕事に過ぎないという言い方もできるかもしれません。真に偉大な数学的な発見というのは、本当に偉大な、真に偉大な数学者によってしかなされないという私達凡庸な人間にとってみれば、寂しい世界ではありますけれども、その寂しい世界の末端に生きているということの喜びもあるということを最後にお話しておきたいと思います。

 そして、皆さんにも、その末端に加わるということの良さを理解してほしいと思います。日本には、「鶏頭となるとも牛後となるなかれ」という言葉があります。鶏頭、鶏のトサカ、鶏は所詮鶏ですがトサカになると、どんなにでかい牛でも尻尾になってしまったらおしまいだという考え方でありますけど、私はそれはかなり大きな間違いだと思いますね。いくら鶏頭といっても所詮ニワトリ。所詮ニワトリのトサカがどんなに威張ったところで、所詮ニワトリでしかありません。世の中には鶏頭になったことでもって、世の中の天下を取ったという気分になっている人が時々いるようでありますが、私は、「牛を知らない、本当に世間知らずな愚か者である」と思います。「鶏頭牛後」という言葉を、私達はぜひ乗り越える新しい日本文化の担い手になっていきたいと思っています。

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