長岡亮介のよもやま話202「低俗風潮の支配する今の日本」

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 非常に今では入手しづらい、したがって接することが困難な音楽の音源に簡単にアプローチができるということから、私は心ならずもYouTubeというものを利用することが多くなってきたのですが、そういうものを利用していると、Google社が勝手に今流行りのものというのを私に宣伝で広告してくるので、ついこんなものもあるのかと思って、いわゆる最近のニュース報道あるいはマスコミでないミニコミ、あるいはミニよりもさらに小さなナノコミ、そういう情報発信に触れることも多くなりました。多くは聞くに耐えないと思って途中で変えるのですけれども、あまりにもひどいという状況に、ちょっと日本のインターネットの活用方法が、国際的な水準に達してないということを痛感して、悲しくなります。

 マイナンバーカードが話題となったときに、「韓国であんなにうまくいきながら、日本でうまくいかないのはなぜか」という問いを発した人がいるのですが、おそらくその人は「日本の方が韓国よりも遥かにITあるいはICTと言われる技術に関して先進的だ」と思い込んでいるんだと思いますが、私自身がこの30年前に韓国に行ったときに見聞した体験で言えば、日本とは比較にならないくらい、国を挙げてICT革命を推進しているという韓国の文化のありようでありまして、我が国では、WordあるいはExcelといったマイクロソフト製品を使いこなせる、あるいはEメールが使いこなせるっていうだけで、インターネットを利用している気になっている人が数多くいますけれども、その技術がどのようなもので支えられているのかということを、きちっとわかっている人はほとんどいないのではないかと思います。特にインターネットで最近のような高速接続が可能になってくると、非常に重要なのは排他制御、つまり1人の人がいじっているときに同じファイルを別の人がいじると、そこに矛盾が生ずる。その矛盾を生じないようにいかに制御するか。排他制御というのは基本中の基本の技術ありますが、データベースという言葉は知っていても、データベースで最も重要な排他制御の概念というのは、日本人の常識にはおそらく入ってないのかと思います。そういう日本と韓国のICTに関する基本的なリテラシーのレベルの違いを、私は30年前に経験して、韓国はものすごいというふうに感じました。中国は、言ってみればエリート主義でできる人はできるという形で伸びている社会だと思いますが、それに対して韓国は国民のいわば底力を上げようとする政治運動・社会運動が、日本より遥かに活発で、日本のようにエクセルが使えるから一人前というようなことは全くないように思うんですね。インターネットを利用した自分自身に対する教育、これも韓国では非常に盛んでありまして、日本ではつまらない娯楽番組以下の番組を見て喜んでいるという人がすごく多いのですけれど、そういうものはどちらかというと、韓国にもないわけではないと思いますけれども、やはり私が見る限りでは目につきませんでした。

 最近、非常に悲しくなるのは日本でも破廉恥の事件がいくつか起きる。その破廉恥な事件を報道するとか報道しないとかということで、それを報道している人たちが、いわば正義の味方のような顔をして報道しているわけでありますが、私から見ると、巨悪を許すべきではないという考え方、つまり「国家権力を笠に着て人を弾圧する」というようなことは決して許されない。そういうふうに思いますけれども、その本丸に迫るということではなく、いわば非常に矮小な事柄をさも自分が知った秘密であるかのごとく喋る、という日本の風潮にはいささかげんなりするものがあります。とりわけ、今は、車の言ってみれば損害それを保険で直すという仕組みを悪用したビジネスがひどく叩かれていますけれども、そもそも保険に入っていれば全部保険請求で新しくなるという仕組み、保険という制度の持っている元々不潔な側面につけ込んだ、よく言えば賢い悪く言えばずる賢いという業者がいたということでありまして、保険請求に関する悪事っていうのは、自動車保険に限らず、生命保険でも、あるいは社会保険でもいろいろとあるわけです。私達は保険という制度で困った人をみんなで相互に扶助しましょう、助け合いましょうという精神でやってきておりますが、保険会社っていうのはそういうものでない。私は自分の親族に保険をやっている人間がいましたので、保険というものが必ずしもバラ色の世界でないということは、子供の頃から感じておりました。それでも日本経済が右肩上がりで伸びていくときには、保険会社はその保険のお金の運用収入で大きな収益を上げることができました。しかし、今やそういうことができなくなっている。銀行も保険会社も大変苦しいわけでありますね。ですから、何とかその売り上げを確保するために、保険を成立させたい。保険契約を成立し、その保険に入っていたことによってメリットがあったというふうに人々に感じさせたい。そのことによって保険料収入を増やしたい。そういうふうに思っているわけです。「保険が使われなくなる時代が、保険会社にとって最も良い時代である。」こういう発想は全くないですね。同様のことは健康保険に関しても、社会保険に関してもあるわけです。

 私は、アメリカの共和党政権の政治家ではありませんけれども、そういう社会福祉というものの持っている根源的な、「腐敗へと向かう傾きinclination(インクリネイション)」を私達はちょっと過小評価していると思うんですね。保険によって人々を救う。これはすごく高邁な理想だと思います。しかし、その理想を社会的なシステムとして実装した途端に、その仕組みが堕落を免れない。いわば、社会の仕組みが腐敗していくということ。そのことはちょっと考えればわかることであったというふうに私は思いますが、私は、子供の頃、勧善懲悪の世界に生きておりました時代は、「保険というものが、人々が助け合う、そのための非常に大切なものである」というふうに信じておりました。それが大人になるにつれ、少年が青年になり、青年が壮年なる。そういう人間的な成長というか、悪く言えばネガティブな情報に接することが多くなるにつれて、実は理想のままに運用されているのではない。理想のシステムが、理想と思って作ったシステムが、理想とは全くかけ離れて運用されるということ。これをどうしても見聞することが多くなってきました。そういうふうに考えてみると、犯罪の先端であるいは末端で働いている最も悪どいと思われている業者というのは、ある意味で、そういう社会システムあるいは社会制度を活用して仕事をしろと言われたヤクザの手先みたいなもんでありまして、そのヤクザの手先を使っていた巨大な悪があるわけですね。その巨大な悪の方に目を向けることこそ大事なのではないかと私は思います。

 日本経済が戦後成長したというふうに言われていますけども、全て虚構の中で成長してきたと言ってもいいくらい、本当の意味で日本が戦前のようなもの作りの文化を戦後に復興させたというわけではない。確かに一時期そういうのが活躍した面もありますけれども、多くの日本の企業は、言ってみれば新しい仕組みの中で甘い汁をする。そういうことを学んできただけであるわけです。ですから、私が申し上げたいのは、今、話題としている企業の不正というのは、他人の不正ではなくて、実は私達自身の不正だったということです。私達自身の社会に潜む不正の温床。それが今の一部の目立つ企業の犯罪を引き出しているだけであって、私達の社会全体がそういう汚染にまみれているという現実を、忘れてはいけないと思うんです。まるで中国だか韓国のことわざではありますが、「水に落ちた犬は打て」というばかりに、一旦弱い立場に立たされた、かつて勢いを持った人、その人たちに対する僻みやっかみ、そういうのもあって、徹底的にそれをいじめる。徹底的にいじめることによって、自分は正義の味方であるような顔をする。これは、私達現代日本人が持っている文化の最も深刻な負の側面ではないかと思います。私達日本人は、私達の同僚がそのような惨めな不正をしたときに、その不正を自分の責任と思って、自分が責任を被る。そのことによって、どうかこの手下の人間は許してやってくれ、というような勇気を持つ。そういう高尚な文化の中に生きていた時代があったっていうことを、思い出したいと思うんです。私達は、「水に落ちた犬は打て」というような卑劣な文化の伝統の中に生きているのではない。私達の先祖はもっともっと遥かに高尚な精神を持っていた、ということを誇りとして生きたいと思うのです。

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