長岡亮介のよもやま話199「近頃の曖昧な表現」

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 今日は年寄りくさい話をいたしましょう。年寄りは、「とかく最近の若いもんは」と言いたがる。そういう傾向がある。それで疎んじられるという傾向が古代よりあったというような話もあり、なかなかもしそうであるとすると、非常に深い問題を示唆していると思うのですけれど、「時代は進むにつれて、文化は進歩していく」と普通は考えています。

 実際、科学的な認識というのは、歴史の進歩とともに、というより時代の進行とともに進歩していくという言い方がある程度できる。コペルニクスの時代と比べると、ケプラーの時代というのは素晴らしく進歩したと言えるし、ケプラーの時代から見れば、Galileo Galileiやアイザック・ニュートンの時代は素晴らしく進歩したといえるでしょう。アイザック・ニュートンと比べると知名度の点では少し落ちるかもしれませんが、ラプラスという数学者がいますけれど、ラプラスがやったことというのは、アイザック・ニュートンが成し得なかったことについての大きな進歩を実現したわけで、これでニュートンの太陽系の惑星の運動についてのより精密なアプローチが可能になったと言ってもいい。ニュートンにはできなかったわけです。それをラプラスがやったという意味では、進歩って言えますね。しかし、万有引力というものが、絶対空間の中で、遠く離れた世界に働いているという、言ってみれば、形而上学的な主張をもう少し科学的に合理的なものとして確立したのはアインシュタインでありまして、アインシュタインが出る前までは、重力あるいは引力とは一体何なのかということがわからなかった。引力と質量との関係、それがわからなかった。アインシュタインは、その関係を新しい空間論として、みんなにわかりやすく提示した。

 わかりやすいといっても、それはみんなが簡単にわかるという意味ではないんですが、私達は勉強すればそれがわかるようになっている。勉強というのは、合理的な方法で一歩一歩進んでいけばわかるということで、超自然的な霊感というのを、ある時に天啓として受けるという必要はない。コツコツと勉強すればわかると、それが合理的にわかりやすいっていうことです。最近はわかりやすいって言葉がすごく軽薄に使われていて、「わかりやすく説明します」とかっていうのは、ただニコニコ顔で、相手になんていうか、気持ち悪くすり寄っていく。そういうのをわかりやすいというように、人々は思っているんですが。それは人を馬鹿にした話であって、わかりやすいとはそういうことではない。わかりやすいというのは、きちっと論理的に説明されているということです。「論理的な説明を飛ばして、わかりやすく話しましょう」、これははっきり言えば詐欺ですね。この詐欺のようなことが平気でまかり通っている今の世の中は、おかしいと思うんです。

 老人の話に戻りますと、私は、最近の若い人が使う言葉遣いにすごく気になることがあります。それは、言葉遣いのこういう日本語の使い方がおかしいとかって、そういうことを言いたいんではないですね。例えば、「非常に」っていうことは、「非常にないないない」って否定の言葉を伴わなければいけないんだとか、「大変な」というのもそういうもんだ。これは私も子供の頃言われました。しかし、だんだんだんだんそれが使われるようになってくると、大変に素晴らしいとか、そういうような言い方も十分ありうる。そういうふうになってきますよね。ですから、言葉の問題というのは、本来正しくなかった用法が、みんなが使うことによって、それが正しくなっていくということ。これは会話言葉の持っている宿命のようなものだと私は思っているんです。私が申し上げたいことは、そういう正しい日本語を使いましょうというのでは全くなくて、曖昧な表現にわざとするのはやめたいということですね。何か私若い人と話していると、「何とかかなと思う」と。「何とかかな」って「かな」っていうのは、普通私の頃は「何とかなるかなどうかわからない」、そういう使い方でした。「何とかであるかなと思う」っていう。思うんだったら、「何々であると思う」と言いなさいって言いたいんですね。「何とかみたいなこと」というのも大変に流行っているようですが、これも私は気に入らない。

 そもそも私は教科書の中にある「右図のような何とか」を、あるいは「このようなもの」を関数と言ってという。「このような」っていうのは何なのか。その指してるものが曖昧なのはけしからん、教科書でそんな表現をするのが許されないっていうふうに思いますが、はっきり言って、大学以下の教育というのは、人々の一般の教育ですから学問的に厳密なものをやるわけではない。ですから、「そのような」っていうのを、全て排除することはできないと思いますが、わざと「何とかみたいなこと」というような言い方は、やめた方がいいんじゃないでしょうか。わざと「何とかみたいな」というふうに言う代わりに、「まるで何とかを装っているかの如き」表現とか。例えばそういうような表現に置き換えることができるわけです。置き換えることができないもっと訳のわからない表現がありますね。「出会ったりとか」、とかっていうふうな言い方。なんで「とか」っていうのをつける。その自信のなさを裏付けているんだと思うんですね。「何とか」であったり、私の時代であれば「何とかだったり」っていう言葉があったと思います。しかし「何とかであったりとか」っていうのは一体何を言っているのかわからない。そういうふうに、わざと語尾に、曖昧さを残す表現をつけるというのが最近の流行のようで、「みたいな」とか、「何とかなのかな」とか「何とかであったりとか」とか、そういう表現がすごく増えている。若い人の喋り方を聞いていると、下手すると5秒に1回ぐらいはそういう表現が出てくる。

 やはり人に向かって言葉を喋るときには、できるだけ精密に、できるだけ厳密に、そして心を込めて誠実に喋るべきだと思うんです。自分の責任を逃れるような曖昧さを残すような表現は、責任が取れないことについては、そうせざるを得ないでしょうけれど、責任を取ることができないようなものについては、そもそも発言すべきでないし、それでも責任を取れなくてもそのことを発信する価値があるというならば、そういう言い方ができると思うんです。つまり、「これについては、私は断定することは材料がなくて裏付けが取れていないので、甚だ表現が拙いとは思いますが」と、いうような言い回しをつけて、「そういうようなことも指摘できるかと思います」という程度だったならば許されるんじゃないかと思うんですが、どうも訳のわからない、身内だけで同意している。そして、身内だけで盛り上がっている。これは、大げさに言えば、言葉のファシズムのような気がいたします。

 ということで、今日は老人の繰り言のように聞こえますが、「言葉は、できるだけ鮮明に、かつ自分の主張を明白に、責任を明らかにして、喋るように、心がけましょう」という若い人へのメッセージでありました。いい大人がこのような表現を使っているのは、全く大人になりきってない子供を表現しているようで、私としては情けない限りと思います。

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