長岡亮介のよもやま話192「音楽が好きな恋人を持つこと」

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 今回は久しぶりに楽しい話をいたしましょう。それは音楽に関してです。音楽というのは、本当にすごいことだなと思うのは、何十年も時を隔てて同じ音楽に接したときに、時間の距離を越えて、突然にその昔の思い出が鮮明によみがえるということがあるということです。このような鮮明な印象というのは、記憶の中にもう忘却の彼方に去っていたはずの感情が、沸き起こってくる。そういう直接的な感動というのを知ると、音楽の持つすごさ、あるいは広く芸術の持つすごさというものを感じます。しかし、立派な作品に接するというのも、芸術の楽しみの一つではありますが、立派でなくても、芸術の創作活動に参加するということはとても楽しいことだ、というお話をしたいと思うんですね。

 芸術に音楽とか、美術とか、あるいは書道とか、いろんなものがありますけれども、音楽の場合は特に自分一人でやるというのではなく、何人かと共同でやる。私は、若い頃はシンフォニーが好きだったんですけれども、最近はカルテットのようなものがとても好きになっています。その弦楽四重奏というものは、たった四人でやっているのに、それがシンフォニーに匹敵するような何とも言えない調和と躍動を感じて面白いと思うんですね。シンフォニーの場合は、すごく大オーケストラが、指揮者の下で一斉に、時には一斉じゃないこともありますが、一緒になって演奏するので、一人一人の貢献というかコントリビューションというのは、全体の中に調和する形で消えてってしまう。しかしそれはそれとして、素晴らしいことであるのですけれども、一つ一つの楽器の音色が聞き分けられる。そういう小さな四重奏とか五重奏とか、これはもう楽しいものであります。

 でも、合奏というものの楽しさは、素人の合奏であっても上手にできたときには、音の世界がフワーッと部屋全体に広がる。その和音の奏でる空間というのは、一度経験すると、本当にすごいことだと思いますけれど。オーケストラのような大きなものであれば、より一層そうなのでありましょう。そういう大きなオーケストラの中で、一部分を担当するというオーケストラの演奏家も本当に大したもんだというふうに思いますが、一方で、ソリストって言われる人たち、つまり、自分が一人で演奏する。一人で演奏するっていう場合には、コンチェルトっていう感じであることが多いですね。バイオリンコンチェルトであるとか、ピアノコンチェルトであるとか、あるいはクラリネットコンチェルトがある。一人の演奏家の楽器を中心として、オーケストラと掛け合いというのもちょっと通俗的すぎるかもしれませんが、それが競合するように一つの音楽を作る。すごいことだというふうに思いますが、私はそんな経験は全くないのですが、そのソリストの立場に立ってみるという自分を想像してみると、なんとも恐ろしい感じがするんですね。自分一人の単独の演奏であってもそうですし、コンチェルトであってもそうですが、自分の働きというのが自分一人で支えなければいけないというその孤独感というか、責任感というか、そういうものを想像すると、それだけで押しつぶされそうな気持ちになりますね。と同時に、そのような責任を持って演奏するということは、どんなに素晴らしいことかというふうにも思います。

 最近は、素晴らしい演奏家の演奏、歴史的な演奏に、デジタル技術の進化によってデジタル・リマスタリングということが普及して、本当に歴史的な演奏ヒストリックパフォーマンスに、簡単に接することができるようになっています。これは、私はとかく否定的に考えてしまうインターネットでありますが、インターネットの素晴らしさですね。そういうインターネットの素晴らしさを通して、素晴らしい演奏、そしてその素晴らしい演奏している演奏家の気持ちを想像すると、何か自分は演奏ができるわけではないのに、ウキウキしてくるんですね。このウキウキ感というのは、なかなかそれに接してないときには想像もできないものです。私は、芸術というのはとても原始的なものだと思うのですけれど、その原始的なものを持っている力というんでしょうか、人類が最初の頃から持っていた「自分で何かを表現する。そしてそれを人に伝える」ということの最も直接的な方法として、存在しているんではないかと思います。今のように洗練された楽器とか、洗練された演奏、そういうことがない時代から、人々は歌を歌い、あるいは一緒に音をいろんなもので奏でる。そういうことで、芸術表現の楽しさというのに接してきたんだと思いますが、私達は現代に生きているおかげで、本当に優れた楽器、優れた演奏家、そして何よりも優れた作曲家。その人たちを通じて、その人間の原始から持っているものすごい力強い本能的な喜びに、目覚めるのではないかと思います。音楽の場合が最も典型的なので、音楽を例にしましたけれども、粘土でいろいろなものを作るとか、いろんなところに絵を書くということも、私達の持っている非常に原始的な喜び、生きていることの喜びなんだと私は思います。

 そして、実は非常に短い歴史しかないように見える現代科学でありますけども、その現代科学の中で、それを支えている見えない縁の下の力持ちとして、現代数学というのがある。残念ながら現代数学の世界は、現代科学と同じように、それに触れるためには準備の期間が少々かかる。それが残念なことで、音楽とか絵画とか彫刻とか書道とか、そのように人間の心に直接インパクトを与えるということがあまり得意でありません。でも、数学の脈々とある歴史を考えると、私達は「数字的なものの考え方を通して、生きていることの喜びとか、意味を発見する」という歴史を積み重ねてきているのではないかと思います。数学は、音楽や彫刻や絵画のように、直接的に人々の心に訴えるということはできない。自然科学もそうです。でも、私達のやはり最も古くからある「一体自分は何のために生きているのか。自分はどうしてここにいるのか」ということの疑問に繋がるような深い疑問、それに触れる喜びなんだと思います。それが、人々から遠ざけられているのはちょっと残念に思います。同様に、音楽に関しても、やはり現代音楽のようなものを理解するためには、現代音楽に関する修行が必要ですね。私の友人にジャズがものすごく好きな人がいて、私は特にそれが、アドリブの面白さがわからないんですけれども、ジャズ好きになるには、ジャズ好きの恋人を持つことが一番の方法であるといいます。同じように、芸術や自然科学あるいは数学そして哲学、そういうものの奥行きを知るためには、それが好きな友人を持つこと、それが好きな恋人を持つことが大切ではないかと思います。

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