長岡亮介のよもやま話185「真の意での多様性を生きる社会を目指して」

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 今回は、最近わが国を覆っているというか、アメリカ発の新しい文化潮流、それにわが国も踊っていると私は思うのですけれども、それの持つ虛議について、考えてみたいと思います。それは、「いろいろな人が共存する社会を目指して多様性を認め合っていかなければいけない」という言葉。これ自身は間違いなく真実だと思いますが、その言葉を盾にして、いわば、本当の意味での多様性の意味を否定するかのように、例えば競争を否定する。競争があると、それは差別につながるから、そういう論理で競争を否定する。そして人間の心の中にある。私がしばしば“業(ごう)”という言葉で呼ぶところの、深い動物的あるいは生き物全般の持っている、自分の生存を最優先するというSelfishな、日本語で流通する言葉で言えばエゴイズム、そういうものを肯定しているのか、否定しているのかよく理解できない。そういう発言について、今回は考えていきたいと思います。

 差別はよくない。それは、例えば“いじめ”でありますが、人が人をいじめるという行為は、非常に陰惨なものですね。人間として弱い者をいじめるっていうことは、最も卑劣な行為であると思います。動物や昆虫であれば、弱ったものこそ餌食ということになるのでしょうけれども、人間社会においては、弱っている人あるいは弱い人の弱みにつけ込むというのは、最低の行為、卑劣な行為です。そして、最も私たちが遠ざけなければいけない行動だと思います。なぜそうであるかというと、私たちは心の奥底ではやっぱり友達がいてほしい。隣人がいてほしい。その隣人がいてこそ、自分の存在が意味を持つと思っているからということなんですね。なぜそう思うのか、私はなぜそれを思うのか。「人間はそんな理想主義的な存在ではありませんよ」と、いう人がいるようですね。私は、単なる理想を語っているのではなくて、儚くも長い人生を生きてきて、人間はやはり人間が横にいてほしいと思っている。友達がいてほしいと思っている。そういう動物なんだなとつくづく思うからなんですね。それは理想主義というよりはあえて言えば歴史に学んだことと言ってもいいかもしれません。

 私はいわゆる世界史とか日本史の知識に決して詳しいわけではありませんけれども、それはさておき人々の行動変容っていうのを見ていくと、結局は利己的に見えていてその利己心によって、自分が人に認めてほしい、要するに他人の存在を必須としているということです。一人山村に住んで、人々との関わりを絶って、仙人のように生きる。私なんかはそんなふうに見られているかもしれませんけれども、そうではなくてやはり現実の人間と関わりを持っていたい。その人達の話を聞きたい。その人達に話を聞いて欲しい。そういう思いが心の奥底に深く、しかもよくあるのではないかと思う。よく人生で成功した実業家の人が、自分のことを話したがって、人が聞いてもいないのに話が止まらない。それは、他の人から見れば自慢話に聞こえますが、なんでそんな自慢話をするのか。そういう自慢話をする孤独な人生の成功者の動機の立場に立ってみれば、よくわかってくる。聞いてほしいのですね。やっぱり寂しい。自分がどんなに人生で成功したか、苦難にめげずに頑張ったか、そういう話を聞いてほしい。そうやって聞いてもらうことによって満足する。そういうのを見ていると、やはり人間は人間を必要としているんだと思うんです。それは私が理想主義的だとそういうふうに言われるのは、ちょっと意外なこと。理想主義的というよりは、現実をよくみている。私は実際の今の世の中の現実というよりは、歴史の中の様々な出来事を見ても、結局人は人との関わりの中で生きているということを選んだ種族なんだと思います。

 というわけで、例えば社会の中で、重要なメンバーであるということに意味があるということでありますから、社会の中の構成員として様々なpotential能力あるいは特別にある点に関して、秀でたあるいは秀でていない、いろいろな人がいてもいい。多様性を許すことは、自分の存在意義を示すことにもなるわけです。そして、必要な価値観というのは、例えば足が早いということが何よりも大切で、その足の例えば短距離走の能力で持ってその一生は明るく保証されているのだ、というような思想を持っている人は、誰が見てもおかしいですよね。同様に、金儲けの才にたけた人は、私の知人にもいますが、その知人から見れば私のような貧乏暮らししている人は気の毒でたまらないようで、「先生のお金を運用して差し上げましょうか」、そういうふうに提案されたこともあります。私が「2万円くらい預けたらいいかな」と言ったら、「2万円欲しいですか、それだったらあげます」って言われて、私はクシュンとしてしまったのです。そういうお金持ちも、結局私と話をしていることが楽しいのですね。自分と違うタイプの人間が生きている。その人が「ふーん、そんなうまいことがあるんだ」とかっていうふうに感心する、そういう会話がやはり楽しいんだろうと思います。

 人間は自分と違う人と出会うことによって、自分の世界が広がる。そういうことを感じるのですね。人間の持っている多様性に対する可能的な理解の幅、ちょっと哲学的な表現をすると、実際の生きている人間は、実際の人を理解する能力は極めて乏しい。他人のことはわからないと言ってもいいくらい自分勝手な存在。実際の現実の人間のふるまいはその様なもの。しかし、そのような人間が、実は可能性としては他者を深く理解しようとしている、あるいは深く理解する可能性を秘めている存在であることを私は申し上げたい。したがって、その多様性を認める社会っていうのは、みんなが多様な能力を持った人がみんな平等に扱われるべきだということではない。

 今、将棋の世界で若手が大活躍をして、そのファンがたくさんになっていて、無名の新人が一気に天下をとる。そういう光景を見て、言ってみれば織田信長が全国統一を成し遂げようした寸前のところでみんな拍手喝采をしている、そういう気分なのでしょうか。私の子供の頃、若い時ですが、競馬の世界、私はほとんど競馬のことを知りませんがハイセイコーという馬がいて母親も父親も決して有名な馬ではない。それなのに、圧倒的な強さで、本当に何冠王か知りませんが、競馬の世界の主要なタイトルをかっさらっていった。本当に驚くべきことです。サラブレッドというのは日本では馬のことですが、thoroughbred、まさに純血種ですね。血が混じっていない。そういう純血種だけの競争、これが日本ではもてはやされていますが、国際的には必ずしもサラブレッドだけが人気があるわけではなくて、例えばアラブ諸国に行くとアラブ馬というもっと大きな馬がいる。青森に行くと馬場町というのがあって、サラブレッド的な速さの競うのでなくて力強さで競う。そういうところに人気があるという話ですね。これが健全で、サラブレッドだけがいいわけではないんです。サラブレッドの世界でさえ実は血統が正しくない。どこの馬の骨かわからないとまさにその馬が全国制覇した。国民的な英雄になった。歌まで作られた。今もそういう天才的な馬が登場しようとしているんだと思いますけれども、将棋の世界の天才少年を、馬に例えれば大変失礼だと思いますが、しかし本当に無名の少年だった子が一気に天下をとるというのを見て、みんな拍手喝采しているわけですね。才能にはなかなか敵わない。しかも、将棋の世界は才能だけではなくて、勉強がものを言う。そういう世界においては、勉強するという才能、一生懸命勉強するという才能も才能の中で最も重要なものの一つであって、謙虚にひたすら上を目指す。そういう本当に克己的な努力。凡人から見れば何が楽しいのかと思うような克己的な努力。それが毎日の生活のかえがえのない日常となっている。そういう天才的なといって良いかどうか分かりませんが、そういう人がいるわけです。

 科学上の天才というのはみんなそういう人で、ある日本を代表する有名な数学者で、アメリカの大学で教鞭を取られた有名な先生がいらっしゃいます。その先生が20世紀の天才と言われるKurt Gödel 、日本ではしばしばゲーデルと呼ばれますが、彼はまさに前人未踏の発想をもって、多くの人が予想もしない形で論理的に問題を立てそれを解決したことで大変有名で、数学を知らない人でも、彼がやった「不完全性定理」とその歴史的な意味、特に哲学的な示唆について、熱く語る人も少なくないと思います。一言で言うと彼は、最小限の数学的理論とも言うべき自然数論を含む形式的な公理体系は、もし矛盾を含んでいないならば、必然的に不完全であるという定理を証明したんです。ちなみに矛盾を含んだ公理系からは形式的には何でも証明できてしまいます。話は跳びますが、国際的な為替市場は瞬間的には市場間で矛盾していますから、「架空の取り引き」のようなもので巨大な金銭的利益を稼ぐこともできるのではないでしょうか。しかし金銭的利益そのものが矛盾というより虚構のようなものですね。

 話を元に戻しましょう。不完全性定理を「真であるのにそれを証明できない定理が存在する」のように単純化し過ぎると、とてもショッキングに映るので、数学以外の人にも絶大な「人気」のあるのですが、「形式的な体系」という表現が、重要なポイントで、一般の数学者を含め、普通の人には分かりにくいその業界の専門用語です。19世紀末から20世紀の初頭にかけての数学史の一部を知っていると比較的自然な話なんですが、ヒルベルトという大数学者が、提唱した「有限の立場」に基づく「形式的数学」の《救済計画》の延長上にある仕事なんです。ゲーデルはその約2年前の学位論文で、数学を含まない通常の論理体系である第1階の述語論理は、つねに真な論理式はすべて公理系から証明できるという定理を証明しています。これは完全性定理と呼ばれていますが、それは不完全性定理より人気がないんですね。二つの定理の「完全性」の意味が微妙に違うことなど、技術的な話は省いて言うと、完全性定理と不完全性定理の大きな違いは、自然数論が入るかどうかといって良いかと思います。数学の最大の特徴は無限を扱うこと、その最初の出発点にあるのが、誰もが分かり切っていると思う自然数ですがこれを公理化する際にどうしても「任意の集合」についてという言い回しが入って来る。いわゆる数学的帰納法の原理のためです。より具体的に言うと、述語論理で言う任意の「もの」のなかに集合が入って来る、つまり2階の述語論理が必要になるからなんです。ヒルベルトが救済計画を企てるきっかけになった集合論が今度は救済計画の邪魔になったことが、歴史的に因縁めいていて私自身はこれを面白がっています。実は、「有限の立場」という厳しい禁欲主義を放棄すると、自然数論の無矛盾性も証明できるので、普通の数学者は、このような問題にあまり関心をもちません。

 そのゲーデルという人は天才的な人で、そのゲーデルと研究室が同じ建物で、たまたま先生たちは出会った。その先生が私たちに「ゲーデルは私なんかと比べると、何十倍も頭がいい。私の何十倍も勉強して、だから私たちも勉強しなければいけません」とおっしゃるのですね。ちょっとショッキングでした。というのはその先生は、私なんかと比べたら何十倍何百倍も頭がいい。何十倍何百倍も努力してらっしゃる。この先生から見て何十倍何百倍もすごい人が、何十倍も何百万も努力していた。これは果てしのない世界だなと思わざるを得ない。僕ら凡人は才能がないならせめて努力で勝てというのが、普通のスポーツトレーナーだったら言うんでしょうか。しかしながら本当に才能があると言うのは、努力の才能も半端でない。これが凡人と天才とを分けている非常に大きな溝であります。いわゆるIQのようなもので人の能力を図ろうとして、これを具体化するということがアメリカ人は大好きですが、天才たちというのは、そういう正規分布しているように人間の能力を測ると、その能力の最も高いところにいる人というのではなく、そこから全くかけ離れたところに、また小さな山を作る。同じ人間あるいは同じIQという指数で測ると、統計学的には外れ値と言われる世界にいるということなんですね。そもそも、凡人が作ったIQの様な手法が天才に通用するはずがない。まして、凡人を対象にした心理学とかそういう学問と言っていいと思うんですが、一般大衆を相手にしたものが天才的な人に通用するはずがない。

 人間にとって最も大切なことは、天才というような人も私たちの中に存在しているっていうことに対する誇り、これを持つことではないかと私は思うんです。ものすごくできる人がいる。そして上には上があるということ。これくらい、私たちが学校生活を気にして学ぶべきものはありませんね。特に小学校の頃「神童」と言われた人、それが中学に入る頃にボンクラになる。中学校高等学校で「天才少年」と言われた人たちが、大学に入るとボンクラになる。大学で天才と言われた人たちが大学院に行ったら、ただのボンクラになる。大学院で10年に一度と言われた人が、実は100人の先輩たちからみればただのボンクラでしかない。そういうことは上に行けば上に行くほど厳しい競争が待っていますから、その天才たちの自己評価というのもみんな非常に厳しい。ニュートンなんかは、本当に我々から見れば天才中の天才でありますが、彼はいみじくも「私は巨人の肩に乗って、遠くの大海を見ている小人に過ぎない」という例えを言う。誠に見事な例えだと思います。

 私たちは歴史の中の多くの知の巨人の開拓した知の世界、そういうものを利用することによって生きている。そういうことのありがたさを知るというために、学校生活ほど大事なことはない。何といっても学問を体系的に学ぶことができる。本当に「艱難辛苦汝を玉にす」努力でしか達成できなかったような世界。これが紙と鉛筆さえあればできる。そういう世界にまで合理化されて、教育される。ものすごくありがたいことですね。しかし、その有難いことを受けても、当然短い時間の中で、その有り難みを感じることができる人と、何を言ってんだかさっぱりわけわかんないよと、こういうふうに言いたくなる能力差はあって当たり前なんです。「こんなこと、わけわかんねー」。というふうにわけわかんないと言った人に、いいよ、君はわけわかんなくて、君は走るのが早いから、君はケンカが強いから、君は笑顔がかわいいから。いろんな褒め方はあるわけで、その人の人格を全否定する必要はない。だけど、例えば、数理的な的な能力、そういう点で、人々の間に差がある歴然たる事実だし、数理的な能力でさえ差があるんだったら、文芸的な能力とか芸術的な才能とかあるいはスポーツの才能あるいは囲碁将棋の才能、そういうものになったら多様性の幅あるいは奥行きは底知れないものがありますね。

 私たちが「多様性を認め合うべきだ」っていうのは、いろんな人にいろんな才能が潜んでいるということに対して、私たちは常に謙虚でなければならないということで、一般に傲慢な人というのは世の中によくいて、数学者は傲慢な人の代表に数えられる事が多いのですが、これはその人たちが学校生活を送っているときに、周りにいる人たちがあまりにも数学的に愚かだということを見て、呆れてしまうという素朴な反応を見てそういうふうに感じるのでしょうが、本当に立派な数学者になった人は、世界の最先端の人々と付き合っている数学者の中で、傲慢な人は私は一人も知りません。皆さんはものすごく本当に道徳の模範生となるくらい穏健でおおらかで人に優しくて、そういう人々ですね。ホーキングのような神の存在を否定すると言った人でさえそうです。

 実は、アメリカの大衆番組The Big Bang Theory、昔は無料で見ることができたので私は全編繰り返し繰り返し見たのですが、その楽しいお笑い番組なんですが、お笑い番組のお笑いのネタが最先端の物理化学なんですね。最先端の物理化学の知識なしには、俳優があるいは脚本家がその脚本を書けるはずがないですけれども、実はアカデミックアドバイザーっていうか、そういう人がいて脚本をチェックしている。そのために、非常にレベルの高い作品に仕上がっている。その中には、アメリカ社会における教育をおちょくる場面があり、人種差別の問題も堂々とね、その中ではユダヤ人とか、インド人とか、アメリカ社会の中で意地悪されている人も非常に重要な役割をしていて、いかにもユダヤ人いかにもインド人のように振る舞う。そしてそれを笑い飛ばしている。要するに、これを笑い飛ばすだけの自然科学的な叡智の世界というのがそこにあるっていうことで、アメリカの大衆が理解しているとすれば、私はこれは民主主義体制に反対するよりももっと大きな国力の差、国民的な知性の差なのかなって思います。そんなことはないに違いないとは思っています。アメリカ人たちが笑っているのは何もわからないからこそ気楽に笑っているのだとさえ、私は疑っていますけど、中で交わされている自然科学の内容は非常に深い。その中には面白いことに美人の女の子が出てきて、その美人の女の子は自然科学に関して、とんでもなく音痴っていうか、全くわかっていない。コミュニティカレッジ、日本で言えば短期大学というのでしょうか、そのコミュニティカレッジさえ卒業できなかったというような学力の人なんですが、片方はあまりによくできていて、高校1年生くらいで大学の学位をとったっていうような天才たちなんですね。その天才に向かって、「ねえ、私、お願いがあるんですよ」と、女性が言う。「お願いって何だい」と、天才が聞く。「私に、あなたたちのやっている物理を教えて欲しい。」「それは無理」、そう言うふうにむげもなく断る。「あなたたち天才なんでしょ、だったら私に物理を教えることだってできるじゃない」」ってそう言うふうに相手のロジックを逆手に取って、なかなか賢い女性ですね。彼女は学問的にはゼロなのですが、人間として賢い。そして、その説得に負けて、天才物理学者は、「物理とは」と教える。じゃあ現代物理について教えるのか。例えば相対性理論とか量子力学とかそういうのを教えるのか。そうではない。じゃあニュートン力学について教えるのか。そうでもない。そういう近代的な科学の精神はいつ生まれたかという話から始めるのですね。「昔、古代の世界で、人々は天上を見上げていた。そして、天上の星空の中で大きな不規則な運動があることを発見し」、そんな話から始めると、聞いている女性の方は、「そんな話じゃなくて、私は今やってる核物理学だとかそういうような話、最先端の話を聞きたいだけなんだ」と思う。「それじゃだめだ。それでは、物理の話にならない」と言って、また古代の話から始める。つまり、物理学の最先端の研究をしている人たちが、実は最先端の学問が歴史の中にどれほど多くのものを負っているのか。そういうことをきちっと自覚しているということなんですね。これはすごいことです。日本人や中国人、韓国人、今学問の世界で活躍していますね。果たしてそのような古代の科学についての知識まで持ってやっている最先端の研究者がどれほどいるかと思うと、私はこれはちょっと勝負にならないなというふうに感じます。

 今、日本の場合は典型的でありますが、専門家の促成栽培でありまして、言ってみれば「もやしっ子」みたいなもんです。大学に入った途端に専門の勉強が始まり、大学院に行ったらものすごい狭い、論文が書ける専門分野っていうのを先生から与えられて、それについて論文を書く。それは世界最先端です。誰も鼻も引っ掛けなかったつまらない話題をやるから。それをやって、これについては自分で、世界でこんなことを知っているのは私1人であるなんていうふうに自慢している。世界の中であなたのことを評価するのもあなた1人しかいないという孤独な世界に生きていることを、こういう専門家たちはあんまり知らない。本当の専門家っていうのは、そういうものとは全然違う。全く別次元。最近政治では次元って、まるで漫画のような働きで、次元が異なる。遥かに高い次元のこと、高次元というべきそういう次元の異なる高い次元の専門家、高い次元の天才たちが活躍し、低い次元の天才たちがその天才からのおこぼれ、天才たちがこぼした落穂拾いをしているに過ぎない。落ち葉拾いも大切な仕事なんです。落ちた穂を大切にする。それも命を繋ぐ糧になる。結局、生命を育む、知性を育むという仕事、落穂拾いの仕事をするのだと言う精神が絵に込められていると思いますが、学校というのは、そういう意味で人間の能力受容性、できる人はけたたましくでき、できない人もけたたましくできない。それでいて、みんな仲良くやっていくと言うことを学ぶ最初の原点なんです。それを犠牲にしてみんなを水平にすることが平等に扱う、というのは根本的な誤りだと思います。教育学者とか心理学者といういかがわしい人々が活躍する世の中になってしまっておりますけれども、私たちは私たちの持っている当たり前の常識、私たち人生を形作ってきた当たり前の常識、それを放置してはいけないと思います。

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