長岡亮介のよもやま話179「音楽の素晴らしさとテクニックの上手さ」

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 音楽というと私のようにその筋に明るくない人間でさえ、その魅力がいかに深いものであるかということをつくづくと痛感します。昔昔聞いたメロディーで、頭の中では忘れているかに思っていたそのメロディーが、その旋律を聞いただけで20年のときを隔てて記憶がよみがえるというような奇跡の経験と言ってもいいようなこと、それを本当に当たり前のように実現することのできる音楽の持っている力、音楽の魅力、心を魂を揺り動かす力。それは素晴らしいものだと思います。

 私達がクラシック音楽というふうに気楽に言うクラッシカルミュージックの世界も、大部分は19世紀以前、19世紀といえば我々にとって本当に身近な時代、第一次産業革命つまりスチームエンジンな開発されて、大規模の工場が石炭の出す火力エネルギーによって稼働し、人間が重労働から一部分開放された時代でありました。そしてその時代に工場労働者という非常に悲惨な運命を背負った人間も、大量に生まれたわけであります。カールマルクスが“プロレタリアート”という言葉を作り、そしてその人々に時代を刷新する新しい時代を築くパワーが潜んでいると期待したのも、理解できるところであります。しかし、そういう時代の混乱の中で、芸術家たちが例えばショパンを初めとして、非常に美しい旋律を民族主義的な気持ちを背景に置きながら、ヨーロッパの不安定さの中で漂う心を音楽に秘めていたということ。これは素晴らしいことですね。そしてそれを私達が200年の時を隔てて、それを再現し、その気持ちを理解しようとすることができるということも素晴らしいことだと思います。

 音楽というと作曲家が十分一番注目され、演奏家はその二の次っていうふうになりますけれども、ショパンの頃は演奏してなんぼというもので、自分の作った作曲でそれを作曲して聴衆からお金をいただく、そういう生活であったわけであります。そういうことを考えると、今の音楽家はすごく恵まれているなというふうに思うこともあります。音楽家といっても作曲家に脚光浴びることは現代では少なくて、演奏家の方に脚光が浴びること多いですね。そして最近びっくりすることは、テクニックというか、表面的な技術といいましょうか、そういうことでいうと、今の若い中国人あるいは韓国人、中には日本人、その演奏家たちの技術力の高さには目を見張るものがあります。このように技術力だけで勝負することができる世界が大きく展開しているという現代は、ある意味で不幸な時代だという気もします。技術を磨くために一生を捧げる。その音楽をこよなく愛するということのために時間を割くことができず、ひたすら音楽を技術的に磨く、そういうことに生涯をかけてしまう若者が多くいるとすれば、ちょっと残念な気がいたします。

 最近は何でも若い頃から専門を決めて、専門に向かって一生懸命努力するその成果が報いられることがある。例えば野球にしてもサッカーにしても、私が子供の頃のサッカーや野球と比べると、今の高校野球の球児たちの方がよほどうまいかもしれない。当時のプロ野球選手と比べても上手いかもしれないとさえ思います。しかしそれが本当に大切なことだと本人たちが思い込んでいるということが、私は少し残念に思うことです。甲子園球児などと持て囃して、子供たちが負けて甲子園の土を砂袋に詰めて持って帰る。そういう姿を映像に入れて、ジャーナリズムはそれでお金儲けになるわけです。実際甲子園の土を運んでくる業者さんっていうのがいて、負けて帰っていくチームがそのダンプカーで運んできた土砂を甲子園の土だと思い込んで、袋に詰めて帰る。そういう姿を新聞に載せて、そして人々はそれに感動したりしているわけです。しかし、本当にどうなんでしょうか。青春という二度と来ない時代、それを野球に打ち込む。これも一つの生き方であるということを私は認めますが、一つの生き方でしかないということを理解している人は少ないのではないでしょうか。青春といえば、いろいろ多感な時期でありまして、本を読んでも、音楽を聞いても、何をしても楽しい。心に残る深く残る時代であります。その時代に読んだ本、その時代に聞いた歌、二度と忘れない、そういう思い出であると思うんですね。そういうものを一切犠牲にして、甲子園球児というような言葉に包摂される、そういう高校生時代を送らせる、あるいは高校生の前の中学生、あるいはリトルリーグと言われる小学生の時代、そこまでも支配してしまう大人たちの利害打算、それに子供たちが巻き込まれていくっていうということに対して、私は少し心を痛めます。

 音楽は本当に大切なものだと思うから、みんなに音楽を本当に楽しんでもらいたいと思う。心に留めて欲しい。心を揺さぶって欲しいと願う。それが単なる技術的な上手さ、模倣の得意さ、そういうものに収斂してしまったら、音楽と触れ合ったことにならないんではないか。大げさに言えば、私はそのような懸念を感ずることが最近ちょっと増えてきました。というわけで、素晴らしい音楽であるからこそ、素晴らしい味わい方をして欲しい。そういうふうに心から願っております。同じことは私は学問に関しても言えて、学問に関して本当に新鮮な気持ちで触れ合うことのできる時期に学問に触れ合って欲しい。それが大人から見れば、初等的な学問の入口であるものであったとしても、学問の世界の素晴らしさ、それを感ずることはできるとすれば、それは青少年の時代ではないかと思うんです。その青少年の時代にこういう問題はこう解けば人より得する、こういうような小賢しい経済論理でもって、その青春時代を汚して欲しくない。そういうふうに思います。数学のことに引きつけて言うと自分勝手に聞こえるので、今日は音楽というほとんど全ての人々の心を揺さぶる世界についてお話しました。

 バッハはすごく遠い昔の人だと思ってる人がいるかもしれませんが、バッハが生きていた時代というのは、アイザック・ニュートンが生きていた時代とあんまり変わらない。ヨハン・セバスチャン・バッハの時代とアイザック・ニュートンの時代がそれほどずれてるわけではないということ、このことも忘れないでいただきたいと思います。バッハの音楽の奥深さ、それに感動する人々は、自然哲学者と言われている学者さんたちが宇宙の神秘を解き明かそうと努力していた、そのときの躍動感、それに時には思いを馳せてほしいと願っている次第です。

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