長岡亮介のよもやま話170「“ものづくり2”真の意味での創造」

 前回は日本が得意と言われている“ものづくり”の分野が、言ってみればそれまでの長い思想的な伝統・文化的な伝統を無視してその結果だけを利用するという、「歴史的浅薄さに基づくこのようなものまねによる製品の改良」ということに特徴づけられるのではないか、というお話をいたしましたけれど、我が国は依然として海外で発明発見されたものに対して、それをいかに早く咀嚼するかという流れに乗ることに対しては非常にみんな鋭敏で、日本から世界に向けて情報発信していくということに対してはやはり伝統的に苦手、ということを思わざるを得ない側面が、ニュースなどを見ていると思います。

 例えば、現在の気候変動の問題にしても、脱炭素社会にしても、言葉は日本語ですけれども、元々のアイディアあるいは元々の運動の理念は外国からやってきたもので、日本初といえるものは非常に少ない。日本もその大きな国際的な潮流の中で一定の役割を果たすということはやってきていますが、世界から見れば「なんだ日本もようやく俺たちの潮流に乗ってくれたな」という程度のものではないか、というふうに私は感じています。そもそも日本人の多くの人は、「二酸化炭素を出している今の先進国の産業のあり方が、もし開発途上国に及んだときには壊滅的な打撃になるんではないか」というような心配を共有していますが、では人間が発生する炭素と自然界、例えば火山の爆発によって出る炭酸ガスあるいは炭酸ガス以上にひどい影響をもたらす亜硫酸ガスのようなものの持つ温暖効果が、どの程度のスケールのものであるか比較するというようなことを、自らの科学的な好奇心に基づく研究として調べたりしている人は少ないのではないかと思います。特に西日本は地震大国あるいは火山大国でありますので、この問題は本当はとても深刻ではないかと思います。

 流行りの“カーボンニュートラル”というような話からさらに先端的な話題に関しても日本は似たようなものでありまして、“AI(artificial intelligence)人工知能”という言葉はえらく昔から言われてきたものであると思います。コンピュータの基本原理というのはもう数学的なレベルではありますが、考えられたのはパスカルとかライプニッツの時代でありました。あるいはもっと早くまでさかのぼることができるかもしれません。ド・モルガンDe Morganという論理学者が「論理的な思索という人間の知性の産物であるものは、実は0と1の計算に帰着できる」ということを述べたときに、もう既にそれが始まっていた、というふうに言うこともできるでしょう。そしてさらにチューリングがこんにちに至るコンピュータの基本原理を発表した。私たちが使っているマシンはまだチューリングマシンにも及んでいないレベルではありますけれども、技術的な発たちによって、チューリングが想像もしなかったことまでできるようになってきている。最近は量子コンピュータという量子力学の原理を利用することによる高速処理、高速処理というより正確に言えば大規模処理というべきでしょうか、0と1というビットを単純化して議論するというのは基本的なアイディアでしたけれど、それを量子的な素子というのは基本とすることによって、それより遥かに巨大な情報を一気に処理することができる。それが本当に正しい結果を導くかどうかは、コンピュータに学習させないといけないわけですが、世界中でその競争が始まっています。新しいビジネスに向けての競争でありますね。

 そして、そのような最先端の研究の流れに乗って、その流れとは全く別のところからChatGPTのような自ら学習をしていくコンピュータのソフトウェアが開発され、低レベルの小説あるいは低レベルの宿題の回答、アメリカでは司法試験に相当するもの、アメリカの法曹法律家の資格っていうのは日本の司法試験と比べると遥かに易しいと思いますが、そういうものの合格答案を書くというようなことができるようになっている。ChatGPTなどという言葉が毎日のニュースで飛び交うというふうになっています。この新しい流れをいち早く吸収し、そして自分のビジネスに結びつけようとしている商魂たくましい日本人、相変わらずいろんなところにいます。こういう新しい流れに乗ることによって、新しいビジネスが開拓できる。そして大きな利益を稼ぐことができるという可能性は大いにあるでしょう。

 私はつまらない作文をする、あるいは絵を書くという人工知能よりは、むしろX線、CT、あるいはMRIとそういった画像を、ものすごい数の画像の知識あるいは画像を読み取った経験から、新しい画像についての所見を生み出す、そういうコンピュータの使い方がもっともっと加速していかなければいけない。というのも、我が国はマイナンバーカードなどという形で国家が人間の個人情報を管理するという形に動いていますが、本当に社会で管理しなければいけないのは多様性を持つ各個人の健康データですね。おそらく病気のうち、大半は遺伝的な形質が大きな要因になっているに違いないと思いますが、そのことを明らかにするためにも大量のデータに基づいてエビデンスを持って治療に当たるということが大切だと思うのですが、今、EBM(Evidence-Based Medicine)というのが言われてから従来の医療の常識が本当にひっくり返るというようなことを、私の人生の中でも何回も経験してきました。ですから、今の最先端医療の知見では、というのもあと10年か20年でひっくり返るだろうというふうに私は思っていますけれど、そういうことが起きないためには、やはり過去のデータを正確にできるだけ緻密に集積するということ、そしてそのデータはあまりにも巨大ですから、人間が理解するにはほとんど不可能と言っていい。そういう大量のデータを蓄積し、それに基づいて新しいケースを判断するということができるようになったら、これはある意味で人類の希望に繋がりますね。もちろん、ある意味で絶望に繋がるのかもしれません。「あなたは人生30年生きたら所詮この程度でしょう」というようなことがわかってもあんまり嬉しくない。「10年後にあなたは死んでいる確率が5分の1です」というふうに言われてもあんまり嬉しくない。しかしながら、一方で私たちは必ず死ぬわけですから、その死がいつ来るかわからないということに儚い希望を繋いでいる人がいるかもしれませんけれど、やはり中世の人々のように「私たちはいつか死ぬのだ」ということ。その運命と向き合って日々を生きるということの持っていた重さを、私たち現代人は忘れていますから、ある意味で将来が暗いという予測が出ることも悪くはない。

 しかし、そんなことよりももっと卑近に、「この病気、あなたは何か痛いっていうふうに言っていますけど、もっと深くに原因があってそれはかなり深刻ですよ」というようなことを画像診断で的確に言えるとしたら、おそらく町の開業医さんたちがやっている仕事の中で無能な人たちがやっていることはほとんど意味を失うでしょう。結局のところ血液検査とか尿検査とかっていう科学検査のデータに基づいて、そのデータが赤字で印刷してくるところだけを読んでその場で診断を下す、というようないい加減な診断よりは遥かに精度の高い診断が、コンピュータによってなされることになる。もちろん「コンピュータの診断に対して誰が責任を持つのか。それを勝手にやっていいのか」ということに関して議論がいろいろあり、日本医師会はきっと大反対のキャンペーンを張るに違いないと思いますけれど、コンピュータを利用し、そして人工知能を利用して、その情報を私たちの毎日の生活に利用することができたならば、私はそれは避けて通るべきでないと思います。便利な道具は人々にその利用に対する道を開放することが文明の進歩であって、それを一部の特権階級の独占的な手段とすべきではないと私は思います。医者なんかは特権階級ではないというお医者さんがきっといらっしゃると思いますが、もちろん私はお医者さんたちの置かれている実態というのを知っていて、とんでもないレベルの人から本当に素晴らしい医師まで、医者という言葉で呼ばれる職業の人たちも上から下までものすごい多様性に富んでいるわけですね。そういう中にあって、医師としてというようなひとくくりに括る私の議論が乱暴過ぎることは明らかです。しかし、あえてその乱暴を冒しても、「処方箋を書く権利が医師だけに認められている、反対に言えば医師でありさえすれば誰でも処方箋が書ける。医師以外の人が処方箋を書いたら違法である」というような、今の硬直した医療に関する法的な規制は時代遅れではないかと私自身は感じています。

 実際、ある非常に貧困な環境の病院、日本ですよ、東京で、しかし実際には非常に医師が医師としての技術が低い病院の例です。そこではベテランの看護婦さんが医者に対して、薬の処方箋を書くのを薬ごとにそれを何個これを錠剤を何粒、そういうふうに書けというふうに処方箋を書く指導してるんですね。医師は看護師さんが言うままに処方箋を書いて自分の仕事が終わりっていうことになっている。気の毒な医者だなというふうに思いましたけど、見るからに能力のない医師で、いろんな人生の経験からそういうところに行かざるを得ないことがあったんだと思いますが、そういうふうにして働いている医師もいる。そういうところでは看護師さんが実際上処方箋を書いているんですが、処方箋を看護師さんが書ことは法的に許されないですね。医師免許を持ってさえいれば、どんな人でも処方箋を書くことができる。ちょっと本当はおかしいと思いませんか。それだったならばチャットボットではありませんが、もう少し高級な医師ロボット・診断ロボットが「こういう可能性があり、従ってこの商法をすることがあなたにとって最も合理的なものを一つであると思いますが、プランA、プランB、プランC、その中からあなたが好きなものを選んでください」というようなことをやってくれた方がよほど恩恵が大きいと私は思います。少なくとも訳のわからない医者が、訳のわからん患者の言うがままに処方箋を書いているようでは、そしてその書くことによって商売をしてるというようなお医者さんにかかって慰められるだけで、口先で慰められるだけで、病気自身と戦っている自分を本当の意味で支援してくれてるのでないならば、そんな医者はいらないって私は思ってしまいます。

 同様のことは学校の教師についても言えるわけで、教員免許という国家資格を持つだけで子供たちの教育ができると思っている学校の経営者、あるいは保護者がいる。とんでもないことですよね。そんなもので若い子供たちを教育するための本当の力があると認定されるはずがない。また、子供たちがそのような教師に習うことによって、自分たちの人生の可能性が開けていくというはずもない。そのくらいの教師であるならば、むしろ教師ロボットが子供たちに知識を伝えるっていうことの方がよほど良い。実は教育というのは知識を伝えることが大事なんではなくて、子供たちの中に眠っている可能性を引き出すという崇高な行為であり、これは別の言葉を返して言えばですね、「子供たちの魂に揺さぶりをかけて、その眠っている魂を覚醒する。目覚めさせる」ということであると思うんですが、そのようなことは本当はロボットなんかにはきっとできるはずはないし、立派な教師、教師という名がつけば誰でもできるんではなく、「深い見識、学問的見識、多くの人生経験というのを踏まえて、初めてできるかもしれないという稀有な可能性を実現性に転換するということ」、これが教育であり、教師の役割であると思うんですが、それは簡単なロボットのようなものでできるものでは決してないと思います。真の意味での創造というのはクリエイティブなことですね。「クリエイション、これは海外の流行の技術を持ってきて、それを日本で少し洗練させればできるというものでは決してない」という当たり前の結論になってしまいますが、その当たり前のことを毎日確認しなければならないほど、日本は依然として明治維新の鹿鳴館文化を継続しているように私は感じておる次第です。

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