長岡亮介のよもやま話165「軍国主義的な傾向」

 今回は私が子供の頃から感じてきた私達の日常的な文化の中に潜むなんとなく軍国主義的な傾向。これについて考えてみたいと思います。軍国主義というとつい私達は戦前の気狂じみた教育あるいは、気狂じみた見境のない戦争。それを駆り立てる精神。それを連想しがちでありますが、私達のごく近い日常の中にそういう軍国主義的な傾向がいまだに強く残っているのではないかというお話です。特に、学校教育において感ずることですが、運動会のときに一斉行進、とかって今はないのかもしれませんが、私の時分にはありました。あるいはグループで整列して何か一種の統一的な演技をする、当時はマス体操って英語でなんて言うのかよくわからない日本語と英語の入り混じった表現でしたけど、大きな行程の中で10個ぐらいあるいはもっとだったかもしれませんがグループにわかれてそれが一斉に同じ演技をする。というものです。今でもあるのかもしれませんし、もう無くなったのかもしれませんがそれを見ている人に見せるわけですけど、それが全体が統一して一斉に行われると、ある意味で美しい。統一感の美しさと言うんでしょうか?しかしそれを見て美しいと思うのは言ってみれば演壇でその演技を見ている人たちでやっている学生たちはその美しさがわかるわけではない。言ってみれば壇上の人々が自分の抱える生徒たちを一致団結させている。そして自分の指揮のものに一斉にそれが動いてる。一種の閲兵式のようなものではなかったかと思います。学校の先生たちという職業の人々、こういう人たちは何か軍国主義的な軍人のパレードと同じような運動会のマス体操というのを好んでいたように思います。およそ、軍隊のパレードって、足並みを揃えて一斉に奇妙な歩き方をするということにどういう意味があるのか。私はよくわかりませんが、ナチスのヒトラーでも、あるいはファシスト政権を多くのファシスト政権、日本を含めてですね、においてもそういう軍国主義的な行進が愛され今でも多くの国においてなされているんではないかと思います。

 偉大な先祖を祀るそういう特別な場所において、儀衛兵というのは、様式にのっとった毎日の挨拶。それを思う重々しく行うという文化は多くの地域に見られます。馬鹿馬鹿しいほど様式化しているわけですがそれを見ている人にとっては滑稽なんですが、滑稽な印象を持って見ているあるいは写真を撮っている観衆を前にして、ニコリともせず、同じような動きをする。そういうの閲兵、儀衛のための兵隊さん、本当によく訓練されているのだと思いますけれど、よく噴き出して笑い出さないなと感心いたします。何かそういう人間を非人間的に行動させるということに対してある種の何か先祖に対する、あるいは英雄に対する儀礼というか、あるいは尊敬を表現する様式というか、そういうものの美しさというのを尊んできたと思いますが、そのように祀られている英雄にしても、あるいはそういう式典の奥に暮らしている高貴なる人々にしてもそういう姿を見て、嬉しいとは今は考えないのではないでしょうか?しかし、何かしらの要因でそういう様式、馬鹿げた形が続いている。

 そのことは私達ごく一般の庶民の中に、ある種の統一的な人々を一致団結させて様式を統一して行動させることの持っている力強さに対する憧れなり、そのように統一する自分の経緯に対する誇りだったり、そういう感情が私達の中に存在するということの証明ではないかという気がします。そういうものに対する警戒心というのを常に持たないと、ともすれば、そのような人間の心の大底に潜む軍国主義的な傾向というかその軍国主義という表現が言い過ぎであるならば、人々を統制する統一感への憧れというか。統一した動きをする人形のような人間を見てそれを支配しているというふうに錯覚するあるいは思う、あるいはそれを誇示する、そういう傾向に私達はもっと敏感であるべきではないかと思います。軍人の訓練は行進に始まる、というふうに聞いたことがありますけども、であるとすれば、このような一斉行進をすることそのものにやはり私達は警戒心を持つべきであると、私はそういうふうに感じてるんですが、私がちょっと極端な考え方をしているのでしょうか?

 学校における朝礼にしろ、あるいは職場における朝礼にしろ、人々を集めて式典を行う。日本では官公庁にそのような習慣がいまだに深く根付いていますね。やれ結団式であるとか、解散式であるとか、セレモニーが大好きです。さすがに結婚式をそのような軍隊式に行うという風潮は今の日本ではもうないと思いますけれども。私達はセレモニーというものに対して宗教心を持って接するのではなく、軍国主義的な権威あるいは軍国主義的な従順の表現としてそのような式を行うということに対して、私自身はもっと警戒心を持って良いのではないか。近隣の国の中でしばしば見られる軍事パレードというものの恐ろしさを感じたときには、それは近隣の国の恐ろしさではなく私達の内にある、ある種の非人間性に発展する可能性・要素。それに敏感でありたいと思うのです。そしてそれは決して行進だけでなく、私は結団式とか解散式とかそういうものにもあるのではないか。日本人は特にそのような戦前からの文化に対して最近あまりにも無防備であるのではないかと感じています。私が過敏すぎるのかも知れませんけれど。

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