長岡亮介のよもやま話155「ポイントがもらえる」

 どうも最近自分で年を取ってきたなと実感するのは、やはり世の中のいわゆる世相のことが気になって仕方がない、そういうふうになってきたことです。若い頃は、まさに自分がその新しい時流を作る、あるいは新しい時流に乗っているという気分で、ちょっと上の世代から、「君たちの言葉遣いが少しおかしい」というふうに指摘されても、「我々は我々の言葉に新しい意味を乗せているんだ。だから、そのことに文句を言わないでくれ」というふうに反論した思い出があることは事実なんです。私の世代は、多くの私の同僚がそうだと思いますが、“暴力”という言葉にある種のロマンティックな憧れを感じておりました。それは、人々の仲間に対して、あるいは友達でない人間に対して、本当に親しい友人でない友人となる可能性もあるかもしれない人に対して、傍観者のように振舞っているということが、すごく無責任ではないかと。もし自分がその人のためにしてあげられることがあるならば、積極的にすべきではないか。それは相手にとっては、ひょっとすると迷惑なことなのかもしれないけれども、その迷惑を顧みず、その人のためになることをするということが、自分たちの存在をかけた意味になるのではないか。そういうようなことを、お酒を飲みながら夜通し友達と議論していたものでありました。そのときに出てきたのがキーワード“暴力”でありました。考えてみると、自分たちがそのようなことに巻き込まれたくないと思っている人を、強引に自分たちの議論の中に巻き込むというのは、暴力的な行為そのものでありますね。精神的な暴力であって、肉体的な暴力というんではありませんけれども、精神的な暴力の方が肉体的な暴力より良いってことはないわけで、むしろ「肉体的な暴力よりも精神的な暴力の方が残酷なこともある」というようなこともしばしば出てきた議論でありました。しかしながら、私たちはあえて暴力的なまでに他人の人生に対して関わるということに、自分たちの人生の意味を新たに発見できるのではないか。そんなふうに考えたものであります。「暴力の持っている先進性」というような言い方を、私たちはよくしておりましたが、そういうときに先輩たち大人たちから、「今の若いやつは言うことが過激でどうも」っていうような御説教をいただいたものでありました。私たちは、確かに行動が過激というよりは、考え方において本当に根底的であり、根底的であるがゆえに全ての伝統文化に逆らう。そういうような暴力性・過激性というのを持っていたというふうに認めざるを得ません。

 今この年になってみると、その頃考えていた言葉が必ずしも適切ではなかった。つまり、私たちが使っていた当時の言葉というのは、その時代の中でこそある一定の意味を持っていたのであって、その時代を超えて、例えば私たちの書いたもの、あるいは喋ったことを古典として後世の人が読んだならば、全く正しく理解してもらえないかもしれないとさえ思うわけです。私たちは自分たちが若い頃、自分たちの使っている言葉がそういう言ってみれば時代に対する依存性、あるいは時代拘束性というのを持っているということを、少し感じていたわけでありますけれども、それが甚だしい間違いであるというふうにはあまり思っていなかった。傲慢といえば傲慢、若気の至りと言えば若気の至りかもしれません。しかし、私たちは私たちなりに考えていたということは認めていただければと思います。

 私は最近の若い人たちが言葉を使うときに、そのような一種の言葉に対する責任というか、あるいは言葉に対する矜持・誇りを、自分たちの発する新しい言葉に対して、その言葉を自分たちだけが使うんだという誇らしい気持ちを持っているのかな、というふうに不安に思います。それは何かっていうと、最近やたらに聞くのは、「何とかしてもらえる」っていう言葉なんですね。コマーシャルでも、何かポイントもらえるとかマイルもらえるとか、“もらう”っていうのはある意味、貧しい人・弱い人が、富んでいる人・力のある人から、いわば一つの慈悲としてお布施として頂戴する、とそういうようなものでありますね。坊さんやあるいは修道僧が労働を禁じられて、そして寄付だけで、日本では寄進とか喜捨って言いますが、それによって生きている。そういうときには“いただく”っていうふうに本当に言うわけでありますね。“いただく”ということの中に、ある宗教的な意味を見出す。これはキリスト教でも仏教でも同じようにある宗教的な伝統です。

 前にちょっとお話したことですけど、アメリカにおいて、民主党のやる社会政策に対して、共和党が鋭く反対する。その共和党の反対は私たちから見ると、「弱者を切り捨てる。強者のロジック」そういうふうに映るわけですが、それがそうでなくて、共和党の人が言っているのは、「本来は、弱い人・貧しい人がいたら、助けることが富んでいる人・強い人の責任である。そういう人間の持つべき良き美徳を全部国家の責任においてやってしまったら、人々が人徳高い人間になるということができないじゃないか」というロジックがあるんだ。私たち日本人に少しわかりづらい論理がある。それは共和党の良識派の人々の中にある見解でありますが、アメリカでは根強いものはあるということを感じています。ちょっと話がそれましたが、そういう意味で、人に寄付をするというようなことは、アメリカ社会なんかではとても重視される道徳的な行為なわけですね。日本では、寄付するっていうとなんか慈善事業といって、お金持ちが年末だけ急に善人になる。慈善活動っていうのは偽善的である。そういうふうに批判する人がいますけれども、確かに1年のうち年末だけ慈善家になるというのは、どうもおかしいわけですね。本当は年がら年中慈善的であるならば、その人は偽善的だっていうふうに避難する人は少なくなると思いますけど、自分の富んでいる生活を置いておいて、それがどうやって富を築いたかということ、その背景には深く立ち入りことなく、そこのお金のほんの一部を貧しい人のために使う。それで満足する。そういう自己満足に対して偽善的っていう言い方をいたします。偽善については、また別の機会にもう少し詳しく考えたいと思いますが、少なくともわたしたちの時代には、人に対して“あげる”というのは、物を差し上げるというのは、感謝の気持ちであったり、あるいはときには憐憫・憐れみをもって、慈悲の心を持って喜捨する。喜んで捨てるということですね。そういう精神であったと思います。

 今、いろいろな企業が展開している「マイルが貯まる」とか「ポイントが貯まる」だのというキャンペーンは、結局のところ自分たちの商品をより販売促進する、プロモーションをかけるというためのものであって、よりたくさん買わせるために、ポイント制度っていうのを設けている。ポイントをもらって喜んでいるというのを本当はおかしい。その分を既に消費者が払っているわけですね。その払っている分をあたかも還元したかのように見せかけて、安売りを安売りと言わずに、「ポイントがもらえる」という形でキャンペーンを張っている。しかし、営利を目的としている企業、資本主義社会における株式会社っていうのは株主・投資者に対してその利益を還元するというのが会社の義務であるわけです。利益を上げなくてはいけない。利益はどっからあげるか、販売会社であれば顧客からあげるわけですね。その利益を上げるために、「ポイントがもらえます。」こういうキャンペーンをして、人々がそれに飛びつくのはいかがなものなんでしょうか。人々が平気で騙されている、あるいは自分が騙されることに対して鈍感になっている。ポイントもらって得したふうになっている。私たちの時代であれば、「得をした」ということは自分を卑下することで、本来であれば自分の実力で獲ち取るものを、実力ではなくて何か得してもらった。宝くじに当たるような儲かったというようなこと、それを手放しで喜ぶ風潮に対して、私はちょっと違和感を感じるんですね。本当はちょっとではなくて、大きな違和感を感じている。どうして人々はそんなにも卑しくなってしまったんだろう。特に若者は何でそんなに卑しくなったんだろう。そう思います。若者にとって携帯電話の料金というのは一番気にかかるところでありますから、携帯電話でどこの会社であると一番得をするかというようなことを比較して、その比較のための情報をたくさん流す。そしてそれによってまた広告収入を得る。そういう本当にスモールビジネスを展開している人が数多くいるわけでありますが、何かせせこましくて、あるいは小賢しいというか、みみっちいというか、若者らしくないというか、私は残念に思うんですね。

 もし、得と損がそんなに大きな差があるんだとすれば、同じサービスで価格が違うようなことがあるとすれば、既に資本主義社会の成立期に経済学の大家がいみじくも言ったように、自由競争によって価格は自然に決定される。需要と供給によって決まるんだという基本原理があるわけです。この基本原理だけだと自由競争が極端に走ることになり、資本主義社会は結局経済恐慌というものから脱がれ得ないということが、100年以上の経験を積んで人類は学び、20世紀に入って社会主義の考え方を政治に取り入れた思想、あるいは社会体制が確立する。もうほとんどの西側・東側全ての国で、社会主義的な体制が組まれている。日本は社会主義国と自分で名乗るところ以上に社会主義が徹底した国だと私は感じておりますが、私は世界で最後の社会主義国っていうふうに時々揶揄して言っておりますが、そのくらい私たちは資本主義の自由競争というものにも重要な欠点があるということを経験しているわけでありますが、にもかかわらず、基本原理を資本主義に置いているのは、その資本主義市場における自由競争によって、不正が自然に防がれる。儲け過ぎようと思っても、購買者の方が安い方を買う。安い方を買おうとして供給者が価格を下げる。そうすると、今度価格が下がったことによって、今まで市場で別のものを買っていた人がより価格の安いものに行く。そのようにして価格が安いところにみんな集中することによって、価格が安いところが儲かるかというと、価格が安すぎてそれが破綻する。また価格の高いところの物に行く。携帯電話においても、そういう攻防の歴史が繰り返されているっていうのは、若い人の方が私たちなんかよりも何倍も詳しく知っているはずなのに、にもかかわらず依然として企業の出す様々な広告宣伝、こうするとお得っていうキャンペーンというものを比較して、どっちが得だそうだというふうに言っている。もし素人がそのように簡単にわかるような損得があるんであるとすれば、当然のことながらもう自由競争の市場において、勝者は決まっているわけですね。でもそれがそうはならないというのは、商品の価格を決める上で他にいろいろな付加価値があるわけで、その付加価値をどのように評価するか難しいわけです。その難しさを突いて、今多くの携帯電話会社3大会社とか4大会社って言いますけれども、覇権をしのぎを削って競争しているわけですね。その競争が激化すれば激化するほど、実は価格は公正に決まっていくに決まっているわけでありまして、結局そこで行われていることは囲い込みということに過ぎないと思うんです。そして、非常に情けないと思うのは、いい若い者がそういう大手の業者の市場囲い込みの手先となって、非常に怪しい情報をあたかも客観的な情報であるかのように発信する。それを恥と思っていないということです。「何とかをもらってお得です。」こんなことで人々の心が揺さぶられると思ったら、私は大間違いだと思います。人々の心は感動によって揺さぶられるわけで、その感動というのは決して安さから来るわけではない、と私は思うのですが、いかがでしょうか。

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