長岡亮介のよもやま話154「関係“性”という言葉」

 今回は、自然言語つまり私たちが日常的に使っている言語の持っている造語能力、新しい言葉を作る能力について、またそれを正しく使えない人がすごく増えているということについて、お話したいと思います。どういうことかというと、日本語とかドイツ語というのは、いろんな言葉をくっつけて新しい言葉を作ることが得意な言語だと思います。私たちはその日本語の特性を利用して、特に先進国における発展した「科学技術の言葉を日本語に翻訳する」ということに成功してきたわけでありますね。例えば、“数学的精神”というような言葉、元々日本語にはありませんでした。“数学”ということもなかったし、“精神”という言葉もなかったので、仕方ないといえば仕方がないことでありますが、中国から伝わってきた言葉を利用して、私たちは“精神”という言葉、それから“数学”という言葉、特に後者に関しては明治時代の造語努力によるわけですが、“数学”をこともあろうに「数の学問」って訳してしまったのは数学に対する無知が招いていると言わざるを得ませんけれど、少なくとも言葉として精神とか数学っていう言葉を確立すると、「数学的な精神」とか、あるいは数学的な精神とちょうど反対に「精神的な数学」とか、ちょっと意味わかんなくなりますけれども、そういう言葉を作り出すことができる。これは造語能力というふうに言いますね。

 “的”っていう言葉は、私たちにとって大変便利な言葉で、日本語で頻繁に使われるようになりました。元々中国では“的”っていうのは大して意味がないんだそうで、「何とか的」って言っても、それは「何とかの」っていうふうに平凡に翻訳する方がふさわしいということは聞いたことあります。中国のように漢字だらけですと、その“的”とかっていう言葉をつけて、言葉を繋ぐということに新しい造語能力というようなことを言う必要もないわけでありますね。日本では“的”という言葉をつけて、新しい言葉をどんどん作る。英語ではそれが残念ながらできなくて、例えばSARSっていうCOVID-19という感染症の元になったウイルスの名前ですが、そのウイルス名前のSARSっていう略称にしても、severe acute respiratory syndromeという言葉の頭文字に過ぎません。最初の三つの単語は形容詞ですね。severe非常に深刻な、acute突然やってくるそして鋭い、respiratoryは呼吸器のっていうことですね。最後はsyndromeという非常にあてにいならないギリシャ語由来の言葉で、日本では症候群というふうに訳すのが一般的のようですね。症候群syndromeっていうのは結局、その病態・病気の様子を示す一般的な言葉であって、きちっと病気の起こる発生の詳細を理解して語っているんではなくて、「原因はよくわからない。途中経過もよくわからない。しかし最終的な病態の出方は似ている」というのを、syndromeという言葉で割り当てているんですが、最近は医学が発達して、自分たちがわかってないっていうことがとてもよくわかるようになったので、syndromeっていう使い方がすごく増えていると思います。しかし、syndromeという言葉をつけたことによって、わかったことが増えるわけではなく、むしろわかったことが増えないことに対して、「専門家が、言ってみれば、さじを投げている」ってそういう状況を物語っているんだと思います。今の医学における新しい言葉の作り方を見ても、外国語だと形容詞を上手に結びつけるということによって、長い言葉を作るわけですが、日本語はそれに比べると、より短い言葉で端的にそれを表現することができるようになっていると一般に言えます。医学の用語は、最近はもはや海外の言葉をそのまま日本語に1体1対応するように翻訳するというのが、専門家の世界で定着しているわけでありますから、日本語の特性が生かされているというわけではないと思います。それが、一般の人々にとって医学用務を理解しづらいものにしているということだと思います。

 同様なことは情報科学に関しても言えまして、インターネットの世界、インターネットっていう言葉自身は、インター・ネット、ネットワークをインター、ネットワーク同士の間の関係をインターネットと言った。それを新しい言葉として華々しくデビューしたわけです。しかし、インターネットを支える詳細な技術、一番代表的なものはTCP/IPというプロトコルというふうに言いますが、通信のための約束ですね。規約であります。そのインターネットの情報をやり取りするプロトコールに従って情報をやり取りする。その情報のやり取りをするためのプロトコールが、本当にたくさんたくさん用意されていますから、もっぱらTCP/IPに代表されるように、これはSARSとかCOVID-19っていう言葉を揶揄することができないくらい、多くの英語、TCP/IPはTransmission Control Protocol/Internet Protocol、略語の方が、3文字英語っていうふうによく揶揄されますが、そういう言葉がすごく多く流通するようになっているわけです。省略語の省略語という形で進んでいます。

 そういう英語なんかの世界、つまり言葉を繋げることによってしか言葉ができないという英語と違って、日本語は非常に簡潔にまとめることができるすごい言葉だと思うんですね。このような性質を持っている言葉は、私は日本語の他にはドイツ語があるんだと思いますが、そういう造語能力に長けている言語と、あまり得意でない言語っていうのがあるわけです。どちらもどちらが優れているっていうふうに言うわけではなく、その言語に特有の性質を理解することによって、その言語についてより深く理解すると言うことができるということだと思いますが、ここで重要なことは、私は日本語の例えば“的”という言葉、何とか的、精神的数学とか数学的精神というときの“的”でありますが、そういう大変に優れた造語能力の秘訣を持ちながら、正しく使えない人が増えているということ。それを、わざと意地悪く言えば、「自分の言っていることをわざと難しそうに見せるためではないか」と私が勘ぐりたくなるほど、不適切な使い方が最近増えているような気がするんです。それは「何とか性」っていうのは非常に上手い言葉でありまして、先ほど“精神性”っていう言葉を紹介しました。精神性という言葉は素晴らしい言葉ですよね。精神というのと、精神性とは違う。何が違うかっていうと、精神というのは、人間の中心にあって、人間を人間たらしめている一番深いところのものですが、それは何かって言われると、よくわからない。「心であるとか、あるいは胸の内底であるとか、あるいは頭脳の中で磨き上げられた抽象的な考えであるとか」、精神を定義するのは容易なことでありません。でもそれに対して、精神性っていう言葉は、割と一般の人でも平気で使える優しい言葉なんですね。どういうことかっていうと、精神性って言ったときには、「精神を大事にする。精神に重きを置いている。」そういう性質というのでしょうか。彼は精神性が高いというときには、「彼は肉体バリバリの人だ。あるいは大脳も筋肉でできているんじゃないか」ってそういうふうに言われる人に対して、その反対に、「彼は心をとても大切にしている。頭脳で考えた結論に従って生きている。」そういうのを精神性と言うと言えば、皆さんも賛成していただけると思うんです。

 この“性”っていう言葉は、日本語独特のものと言ってもいいと思うんです。英語では、Happy幸せなっていう形容詞に対して、Happiness幸福って言葉があります。それを幸せ性とか訳したらおかしいですよね。幸福性と訳したおかしい。でも、日本語の精神性っていうのを“性”あるいはそれもし英語に直すとすれば、Happyに対してHappinessは幸福に対して幸福性というふうに訳すべきところなのかもしれません。Happyっていう形容詞を、その形容詞の持っている性質そのものを名詞として取り扱おうという考え方でありますが、英語では形容詞Happy対して、Happinessっていう言葉を使う。でも、名詞として使うHappinessよりも形容詞のHappyの方がとても大切です。日本語では反対に、例えば精神的という、これは形容詞というよりは日本語では形容動詞の語幹というんでしょうか、精神的な、精神的だ、精神的であるとか、何か“精神的だ”の日本語の活用がありますね。―だろ―だっ―で―に―だ―な―ならというふうに子供の頃習いましたけれども、その形容動詞があるとその形容動詞に対して“性”っていう言葉をつけるのが、日本語では一般化しているんではないかというふうに思います。例えば抽象的という言葉は、抽象的なっていうふうに使うと、それは形容動詞っていうに分類されるものです。その形容動詞「抽象的な」に対して、「抽象性」っていう言葉、これは許されてもいいですね。あるいは「安定的」って言葉があります。あるいは「安定な」っていう言葉もありますね。「不安定な」って言葉もあります。そういう形容動詞に対して「安定性」とか「不安定性」っていうのを使うのは、私たちにとって自然ではないでしょうか。同様に「便利だ」という言葉。「便利な」という形容動詞に対して、「便利性」っていうのはあんまり使わないかもしれませんが、「利便な」という形容動詞にすれば「利便性」っていう言葉はよく使う言葉でありますね。最近は健康問題に関心がみんな深い。「健康的な」あるいは「健康だ」っていう形容動詞に対して、「健康性」っていうような言葉も使えなくもない。しかし、私たちはちょっと違和感を感じますね。

 同様に最近は哲学の世界でも運動の世界でも、「身体」というのは人間の持っているただの道具というのではない非常に重要な言葉になってきていると思うんですが、「身体的な」っていうのは、昔で言えばフィジカルということで、体を使ったと言う意味にすぎないわけですが、その体を使った例えば身体的な病気であるとか、身体的な表現であるとか、という「身体的な」という言葉が使えるので、「身体性」っていう言葉、これはこういうふうに言うと、少し哲学的な雰囲気がする重要な言葉のように思います。私たちはある意味で、人間の持っている身体性を低く評価しすぎてきた。例えば舞踊あるいはバレーの世界における表現っていうのは、まさに身体を使った表現であるわけですが、「身体を使って」という、単なるそれが道具ではなくて、身体の持つ、言ってみれば、表現の世界。身体でなければ表現できない世界。それを身体的な世界っていうのを語る上で、「身体性」っていう言葉がとても新鮮に聞こえた時期もありました。

 そういう、いわば日本語の造語能力、言葉を作る能力に対して、それに悪乗りしてるんじゃないかというふうに思う言葉が最近頻繁に聞かれます。それは「関係性」という言葉です。私は「関係性」という言葉を理解することが実はできません。というのは、関係っていう言葉自身が、文法的に言うとおそらく抽象名詞っていうんでしょうか、人と人との関係とか、人と物との関係、物と物との関係、そういう「関係とは何か」。これは数学における現代数学における出発点の一つでありまして、数学においては「関係」っていう言葉・リレーションという言葉を、集合を使って定義するということをやるわけです。「関係」というのは、数学においても非常に重要なもので、その「関係」の最も単純なものとして、関数っていう概念がある。関数という概念の重要性については、中学生・高校生以上の皆さんであるならば、あるいは中学生・高校生を経験した人々であるならば、その重要性はおわかりだと思いますし、皆さんが大学で数学とかあるいは理論物理学とか、そういう現代数学の先端的な分野を勉強した方であるならば、「関係」とか「関数」とかって言っていたものが、もっともっと抽象的な、言ってみればこれは何といったらいいんでしょうか、双対という言葉を用いて表現される世界。これが非常に抽象的でわかりづらいものなのですが、現代数学や現代の理論物理学においてはなくてはならないものになっているわけであります。そういう意味で、「関係」というのは、そういったとても「大切な理論を構築するための出発点として重要なものである」と言えるのですが、それは人間の間の人間関係っていう言葉としても、あるいは上司と部下との会社の人間関係っていう言葉の使い方としても、あるいはあまり好きな言葉ではありませんが、三角関係などというドロドロしい世界を表現するのにも使われていて、それなりに意味を持っている。それははっきりしているわけです。

 「関係」それ自身は目に見えないんだけれども、「関係」というものが、目に見える対象同士の関係として、対象以上に重要であるということ。これは、20世紀以降に生きている人であれば皆が感じていることで、それをわざわざ「集合概念と関数概念」という難しい哲学書にまとめた哲学者もいます。「関係」っていう言葉自身が抽象名詞なのに、「関係」は抽象名詞だと言いましたけど、形容動詞ではないですね。「関係だ」とか、「関係な」とか、そんな言葉は使わないわけです。ところが最近やたらに目立っているのは「関係性が」という言葉です。この「関係性」という言葉によって、何を語っているのでしょうか。関係よりもさらに抽象的な関係を言いたいのでしょうか。双対空間という数学的な概念のことを語りたいとは私は御想像もしていません。そうではなくて、関係っていう言葉よりももっと卑俗な、もっと世俗的なもので、それを「関係性」って言葉で語っているんではないかと思うと、私はこの言葉を使うこと自身が、日本語の造語能力を勝手に悪用した、いわばいたずらといえば好意的ですが、悪く言えば悪ノリあるいは悪用であると思うんです。「関係」という言葉の持っている重要な側面。それの持つ広がり、それをまるで自分なりに勝手に切り取ってきて、それに対して言葉をつける。私は、言葉というのはみんなが使うものですから、大切にしなければいけない。これは言葉を使う上で原点になると思いますが、そしてそうでなければならないと思いますが、どうも最近そうでない傾向が目立つので、ちょっとお話をしてみました。

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