長岡亮介のよもやま話153「気になること」

 気になることと言えば、最近人々の会話言葉が非常に低俗になってきたということを感じます。少し前は、若者たちの語る言葉が非常に下品になってきたということでした。例えば、「あいつむかつくよな」って言う。むかつくっていうのは、「胃がむかつく」っていう表現が標準的だと思いますね。胃酸過多のときに胃が何となくむかつく。そういう感じを多くの人がご存知だと思います。そういう生理的な表現を使って、人間と人間との関係を表現するというのは、ずいぶん下卑た話だと私は感じたものでした。もう少し人間らしい表現ができないかと思ったものです。例えば私の時代で言えば、あの人は本当に鬱陶しいという表現。これは私の若い頃もよく使っていました。鬱陶しいというのも生理的な表現には違いありませんが、むかつくという言葉よりはだいぶ品がいい。鬱陶しいという言葉の語源まで私は理解しておりませんが、例えば蚊とかハエが私たちの身の回りの近くをブンブンしたり、ブーンと飛んだりする。実に嫌ですね。そういうのを鬱陶しいっていうふうに言いました。それと同じように、立ち振る舞いを見ていて、どうも気に入らない。それが鬱陶しいというふうに感じたときに、そういう言葉を語りました。これも一昔前の人からすれば、なんて今の若者は表現が拙いんだろうと、きっと言われたに違いないと思います。

 言語っていうのは国際的に見ても、だんだんだんだん退化するというか単純な方向に向かうものでありまして、それをフランスのように、「正しいフランス語がこうであるというような基準をきちっと設けて、こういう言葉を使わないようにしましょう」というふうに政治の力でリードするということをやらない限りは、あるいはやったとしても、言語というのは次第次第に単純化の方向に向かっていくんだと、私は歴史的に思います。実際、ギリシャ語とかラテン語とかっていう、古典語の世界は実に文法的に難しく、だからこそ、その格変化とか何かものすごいですね。ものすごい格変化があるおかげで、言葉の順序をいろいろと取り替えても韻を踏んだ綺麗な演説ができる。名演説家とか文筆家とか随想家とかって言われてる人たち、セネカとかキケロと言われる人たちは、実に美しいラテン語を語ったわけですが、それができたのは語順をいくらでも変更しても意味が通じる、非常に複雑な文法構造にあったと言ってもいいと思います。ホメーロスにしてもそうでありますね。ギリシャとかラテンの世界は、現在のような強弱アクセントではなく、長短アクセント、長音と短音という短いアクセント、長いアクセントって言ったらいいんでしょうか、そういう長短でありましたから、まさに立派な演説というのは、韻を踏むのが音楽のように美しかったんだと思いますね。

 それに比べると現代語は、英語は典型的ですが、強弱アクセントしかないと言ってもいいくらいですから、わかりやすいといえばわかりやすい。しかし下品といえば下品なわけです。英語では皆さんご存知のように、格変化も代名詞しかない。代名詞の格変化で英語がひどいのは、二人称は単数形と複数形の区別がない。かつては英語にも単数形と複数形の区別はあった。フランスがドイツを知っている方になったならば、二人称の単数と複数が非常に重要な会話での使い分けがあるという意味を知っていると思いますが、そういう区別さえ英語ではなくなっている。そういうふうに、言語は退化していくという宿命を持っているんだと思います。ですから、よほど私たちが言語の退化、言語がどんどんどんどん進化の反対ですね。つまり単純なもの、あるいは下品なもの。卑俗なもの、それに品質が落ちていくっていうことに対して、警戒心を持って当たらなければならないと思うのですけれど、それが意外に難しいということですね。

 最近私が、この10年ぐらいだと思いますけど、すごく気になるのは、わざと自分の主張をはっきりさせないような表現。例えば、「何とかみたいな」というような意見ですね。「何とかみたいな」って何なんでしょうね。「みたい」というのは、猫みたいとか犬みたいという表現は、私たちの時代にもあった。猿みたいじゃないかと、そういうのはありました。しかし、「何とかみたいな。」自分が意見を言っているんですね。「AはBである」と主張したいはずなのに、「AはBである」と言わずに、「AはBであるみたいな。」それで、「みたいな」をつけることによって、自分がそれを主張しているか、主張してないか。かえって不明瞭にするということですね。もっとひどいのは「何とかなのかなー」とか。三、四歳の子供が拙い日本語で、「何とかかな」って言ったらかわいいですよね。しかしいい大人が、ちゃんとした自分の意見を言わなければいけない場面で、「何とかなのかな」とか、もっとひどいのは「何とかな、みたいな」とかっていうふうに、もう本当に訳のわからないくらい無責任になっていく。

 そういう無責任な表現の代表は、一昔前は政治家がよく使いましたけども、「そういう可能性はなきにしもあらず」というような表現でありました。そういう可能性はなきにします。そういう可能性があるって言っているんではない。あるっていうと、ちょっと問題がある。でもそういう可能性はないとは言えない。その可能性がないとはいえないっていうときは、その可能性について何を語ったのかよくわからないんですね。皆さんに前にちらっとお話したことですが、確率が小さいことというのは、普通は起きないというふうに私たちは考えて、それが統計という学問の基本になっているわけです。現象は確率論的にいろいろなことが起こる。何が起こるかわからないけれども、極めて小さな確率のことはめったに起きるものではない。めったに起きるものでないことが起きたときはこれがまさに「想定外」ということになるわけです。「想定外」のことが起きることも想定できないっていうくらい確率が小さいということを、普通は「あり得ない」というわけですね。中国の昔の人の言葉で「杞憂」っていうのがあります。天が壊れて降ってくる。そういうことが心配で心配で仕方がない。そういうのを杞の人が憂えて心配していた。「馬鹿げた心配である」っていうことですが、本当に確率が小さなことでも、地球的な規模で見れば、地球のどっかではそういうことが起こる。いくらでも起こるということ。これも地球科学が最近明らかにしていることであります。

 私たちが経験した東日本大震災のようなものすごい巨大地震。被害という点では、阪神淡路大震災、それも私たちの記憶すべき重要な事件でありますけれども、しかし地球的な規模での大きな現象として、東日本大震災っていうのはマグニチュードという地震のエネルギーが9を超えるという、非常に巨大なものでありました。そういう巨大な地震が福島県沖でまた同じような場所で起こるということは、地震学者から聞いた話によれば、大体千年に一度くらいなんだそうです。千年に一度というと、普通は自分たちの人生の長さ、せいぜい百年ぐらいなもんなんですから、普通は自分の人生の中でもう起きない。そう思ってもおかしくないことでありますね。千年前といったら、今の日本から見れば鎌倉幕府あるいは北条家が力を握っていた時代、そのぐらい前になるわけです。しかしながら、一方ですごく重要なことは、環太平洋、太平洋を取り巻いているアリューシャン列島から北方諸島を通り、日本を通って、沖縄に行き、台湾やフィリピンを通り、オーストラリアに行き、ニュージーランドを通り、南アメリカ大陸チリとか、そして北アメリカサンフランシスコから上に上がっていく。そういう線は、最も地震の起きやすい地域なんだそうで、環太平洋の地震帯のどこかでマグニチュード9クラスの地震が起きるということは、地震学的には大体毎年1回ということなんだそうです。ですから、想定外であると言っても、想定の範囲が小さいとあまり意味がないんですね。私たちは、これだけ広い世界に生きることができるようになったわけですから、想定する世界も広くとる必要がある。そうすると、ほぼ想定外ということが実は意外にそうではなくて、頻繁に起こることだということがわかります。そういうふうに、私たちが自分たちの考える世界を広げることによって、あり得ないということに対して、もうちょっとありうるということ。うまく言えませんが、「簡単にありえないっていうふうに断定することが愚かである」ということに気がついたりするわけですね。

 しかし一般に、「それがあり得ないとは言えなくもない」というふうに言ったときに、一体何を言っているのかって、どっちなんですかってはっきりさせてくださいよ。言いたくなりませんか。私は、やはりそういう可能性を考慮すべきであるとか、そういう可能性はゼロではないのだからありうると考えるべきである。反対に、その可能性はこの程度なんだから無視した方が、私たちの人生の中では常識的により良いのではないか。そういうふうに言う方がいいと思うんですね。「より良いのではないか」っていう、そういう言い方も、昔の人からすれば、ずいぶん無責任な言い方になっているのかもしれません。「より良い」って、そういうふうに断言すべきだ。昔の人だったら言うでしょうね。でも私はやっぱり現代に生きていますので、その程度までは許せるというふうに思うんです。でも、私たちの使う言葉がどんどんどんどん無責任な方向に流れるということは、ぜひとも避けたいと考えております。

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