長岡亮介のよもやま話151「広告宣伝の世界」

 今回は、広告について考えましょう。企業が画期的な商品を開発したときに、その商品の良さを購買者にわかってもらう必要がある。そう考えるのは当然ですね。「自然発生的に良い評判が立っていく」、これが老舗の強みだと思いますけれども、そうじゃないところは、新しいアイディアが画期的だということを皆さんにわかってもらう必要がある。そして顧客にしてみても、そういう情報に一般に疎ければ、最新の情報を得ていないがゆえに商品の恩恵を受けられないわけですから、「最新の商品に関する情報というのが手に入れられる」というのはありがたいことですね。広告というのはある意味で、企業、ものを作る人と言ってもいいかもしれません、と、それを購入する人あるいは消費する人との間の関係・リレーションあるいはリレーションシップですね。その関係をスムーズに繋ぐために重要な役割を果たすんだと思います。英語でそういう公衆との関係という意味で、パブリックリレーションあるいはパブリックリレーションズ。略してPRっていうふうに言いますけれども、これの重要性は確かに大きなものがあるなと思います。それに対してPRと違って、CMっていうのはコマーシャルの略ですけど、コマースってのは商売っていう言葉から来てるわけで、コマーシャルってのはその形容詞形ですね、商売のためのもの。コマーシャルというのが、PRパブリックリレーションと違うのは、「一方的に自分の都合の良い情報だけを発信している」という傾向が否めないということです。

 今でも出版されているに違いないと思いますが、私が子供の頃、主婦のために良い家庭用品をきちっと実際に試してみて、実証実験する。いわば検証する。そのことを通じてこの商品は使いやすい・使いづらいということをはっきりと書いた雑誌が創刊されました。私はそれを見て、とっても立派なことだと思いました。というのは、その出版社は、自分の出版物というのが、企業にとって嫌なことも載せるので、あるいは載せ得るので、企業からの広告を一切頼らない。つまり無広告、つまり消費者がその雑誌がいいと思ったら、それだけのお金を出して買ってくれと。雑誌を安くするために広告を載せている出版社が多いわけですけれど、結局広告をもらったならば出版社は広告主に対しては言いづらいことを言えなくなってしまう。それは良くない。本当の意味での言論の自由という守るために、それに対して対価を払うべきであるという考え方。これが出版社が打ち出した非常に斬新な理念でした。雑誌には広告は載せない。考えてみると、それは当たり前のことだったんですね。当時私が読んでいる少年漫画の雑誌もあるいは新聞も、広告だらけでした。「広告をもらうということ。」大変高い費用をいただくわけですね。当然のことながら、広告を載せたならば広告主に対しては、新聞社も出版社も強いことは言えない、否定的なことは言えない。こうなってしまいます。言論の自由といっても、結局広告主の顔色を伺うということになってしまったら、本当の意味での言論の自由がなくなってしまうということですね。これは、やはり私としては子供の頃その雑誌が創刊されて、もうずいぶん時間が経って今も継続していることと思いますけれども、素晴らしいことだと思いました。

 反対に今、何でも無料になってきている。何でも無料になってきているという代わりに、例えばいわゆる民法っていうのがそうですけれども、結局のところ1時間のうち20分は広告を見せられているというような、これは少し大げさかもしれませんけれども、非常に強制的に広告が入ってくる。こういう広告って言論の自由と言っていいのだろうか。お金を出せば、自分の意見を発表できる。こういうことがもし自由に許されるんだったら、政治の世界だったらとんでもないことになりますよね。また報道の世界でもとんでもないことになるでしょう。今や、SNSというような非常に簡単な情報発信が世論を左右するという世の中になってきている。要するにみんな自分自身は無料で情報発信できるので、その無料の情報発信を利用して自分の利益を出そうとする人が出てくる。本来は広告なんかをするということは、よほどの新製品が出て、それが「画期的なアイディアである。だからぜひこれを知ってほしい」と思う場合でないと、そんなことは恥ずかしくて言えないことだと思うんですね。

 例えば、私はそういう広告の中に、科学的な言葉を使いながら、この人は科学のイロハを知らない。そういうふうに思ってしまう広告が結構ありますね。例えばわかりやすい例ですが、「ある栄養食品の中に、なんとこの栄養素が1,000ミリグラム入っています。」1粒1,000ミリグラム、1粒だともっと少ないかもしれませんが、1,000ミリグラムっていう表現をすること自身が、科学的な無教養を表現していますよね。皆さんもよくわかる通り、ミリっていうのは1,000分の1ということです。だから、「1,000ミリグラム入っている」ってことは「1,000×(1/1,000)グラム入っている。」つまり「1グラム入っている」っていうことなわけですね。1,000ミリグラムというふうに表現すること自身が、科学的な無知を表現している。数大きく言えば嬉しいっていうんだったらばミリグラムってのはやめて、マイクログラムとかナノグラムとかそういうのをつければ、いくらでも数値は大きく出せることができるわけですね。科学の世界では、1,000を単位としてできるだけ小さな数で的確に表現するために、わざと1,000分の1を表すミリと、あるいは1,000の1,000倍つまり100万分の1を表すマイクロ、さらにその1,000分の1を表すナノ、さらにその1,000分の1を表すピコ、こういう単位が用意されているわけです。私達が1から1,000までの数を簡単に表現できるようにしている。なんでこんなことにこだわってるのかということは、またいずれお話したいと思います。

 同じように大きな数を表すのに、1,000倍だったらキロ。1,000の1,000倍つまり100万倍だったらメガ、メガの1,000倍が、皆さんがよくハードディスクなんかで使うギガ、ギガのまた1,000倍がテラ、テラの1,000倍がペタ。こういうふうにSI フランス語でSystème International と言われる国際単位系の接頭辞でありますが、非常に合理的なんです。時々例外的に、例えば、10分の1とか100分の1っていうのを表す、そういう単位もあるんですね。それは、例えば10分の1はデシですね。デシリットルなんていうふうに使えます。それからセンチってのは100分の1ってことで、その場合センチメートルなんていう使えます。それは私達が日常的に使うために、ちょうど都合のいい長さっていうのが1メートルに対しては、やっぱり100分の1を基準にするっていう方が都合がいいってことです。ですから、例えば、長さ1センチメートルっていうのは合理的ですが、長さ100センチメートルというのはおかしいですね。1メートルといえば済むわけです。同様に1,000ミリメートルというのはおかしいですよね。もちろん、数を精密に言うためにわざとミリを使うことがあります。例えば、1,013ヘクトパスカルというような言い方をする。ヘクトパスカルっていうのは昔ミリバールという表現が使われたんですが、ミリっていうのがあまり国際単位系となじみがよくないということで、ヘクトパスカルというのが出ています。ヘクトっていうのは、100倍のことなんですね。さっき100分の1がセンチって言いましたけど、ヘクトってのはその100倍っていうんです。ヘクトが使われるので皆さんがよく知っているのは、おそらく土地の面積、農地の面積を表したりするときのヘクタールって表現ですね。日本ではいわゆるメートル法によって土地の広さを表現するってことはほとんどないと思いますけど、小学校数学で習うものでありますね。本当はヘクトなんていう特別の単位を使うのはやめた方がよっぽどいいんですけど、子供たちにとってわかりやすい。10m×10mで1Rすると、1Rに対して、ちょうどその100倍というのは100m×100mですから、子供たちが想像する広い面積を表すのに、ヘクタールっていうのは便利なわけです。それで小学校ではそれを教えているんだと思います。

 そういう国際単位系の接頭辞を誤って使うっていうか、わざと情報を攪乱するために使う。注意して皆さんがいろんな広告をご覧になると、その広告の中に、広告主がわかってないのか、あるいはわかってないと思われる視聴者を騙すためにわざとしているのか、意図はよくわかりませんが、そういう混乱した表現がたくさん入っている。そのような広告が一方的に流される。ある意味で暴力的な情報の押しつけですね。私の子供の頃は「押し売り」っていう商売がありまして、別に買いたくもないものをものすごい高い値段で脅迫的に売る。そういう反社会的な勢力の商売の方法でありましたけれども、そういう強制的な暴力を伴っていなくても、自分の見たい番組の途中に、そういうわけのわからん情報が入ってくる。これはですね、極めて暴力的なヘイトスピーチ何かと比べると、そういう露骨な暴力性を含んでいないだけ、反社会的でない。そういうふうにも言えて、だからこそ、法律的に取り締まられていないんだと思いますけど。虚偽の情報が流されている、あるいは明らかに不正確な情報が流されているのだとすれば、これはやはり本来ならば取り締まりの対象になってしかるべきではないか。言論の自由だからといって、そのような虚偽まがいの情報が氾濫している今の世の中、特に広告宣伝の世界はまずいんじゃないかというふうに思います。いかがでしょうか?

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