長岡亮介のよもやま話146「弱者と強者」

 今回は、社会的な弱者あるいは社会的な強者、「弱者と強者」という二つの層が私達の社会の中に存在しているという問題について、考えてみたいと思います。そもそも弱者と強者、弱いものと強いものというのは、子供の頃の、言ってみれば、喧嘩の強さと弱さで、それ以来実に日常的なもので、よくいじめのことが問題となりますが、子供は結構いじめるんですね。私自身もいじめられた経験がありますけれど、子供が他の子供をいじめたりするのは、おそらくその自分の強さを見せつけるということによる、いわば子供社会の中での秩序形成の手段なんだと思います。自分の腕力の強さによって、自分がボスであるということをみんなに理解させるということですね。これは、サルなど多くの動物においても見られることで、私達の社会は何かのリーダーあるいはボスの指令をしたがって生きていくことは、いいことだっていうふうに思っている。生物の研究者の方だったら、“生物の種の生存戦略”という言葉を使うかもしれませんが、そんな難しい言葉を使わなくても、要するに、生物、動物、人間が生きていくときに、他の生命を犠牲にしても自分の生命を優先したいという、いわば本能的な衝動っていうのがあって、人間であっても子供の頃にはそれが表に出るということですね。子供は結構残酷なものです。それは、子供があまり教養がない。自分のことしか頭にない。したがって、言わば生物として、あるいは人間としての生存本能が全てのものに優先してしまうということではないかと思います。

 しかしながら、実はそのような自分を強く見せるという競争、それによってその集団の中のリーダーが決まり、その集団が他の集団に対して戦うという、原始的な社会における闘争の原点がそこにあるんだと思いますが、私は前回、「人間の歴史は戦争の歴史であったと言っていい」、そういう側面があるというお話をいたしましたけれども、私達が集団を形成すると、他の人たちがまた集団を形成する。そしてその集団と集団との間で、どちらがボスかという戦いがある。人間の戦いの場合は本当に愚かなもので、相手を殲滅するというところまで徹底して戦う。動物とするが大きく違うところですが、しかし殲滅しないまでも、人間はちょっと利に聡いところがあるので、それを殲滅させる代わりに奴隷とする、自分のサーヴァントとするということによって、より大きな利益が得られるということを知るわけですね。人類はいろいろな社会の中で、集団を作り、その集団と集団が戦い、負けた方が他方の集団の奴隷となる。そういうのが人類の歴史であったと思います。

 そういう中にあって、社会の中で有用でない人たちが“社会的弱者”と言われ、社会で言う有用な人が“社会的な強者”となるわけですが、その弱者と強者が一つの社会の中に共存するということの持つ矛盾。なぜ弱者と強者がいるのか。強者が強者たる所以は、腕力が強いとか、もうちょっと近いところで言えば、武器を使うのが上手であるとか、あるいは敵を騙すのが上手であるとか、ずる賢いとか、いろいろなその人の個性による社会的な強者の地位を確立する性質があるんだと思いますが、他方その性質を持ってない人が弱者と言われるわけでしょう。しかし、社会的な弱者の人々は社会の中では虐げられ、非常に厳しい人生を送ることを余儀なくされる。あるいは人生を送ることさえ拒絶される。そういう運命に立たされることが多いわけですが、私達が本当に長い歴史の中で理解してきたことは、社会的な強者が輝いていて、社会的な弱者がどんよりと曇ってるという人ではないということですね。逆に言うと、社会的な弱者の方が実はものすごく明るいということです。明るいというのは別に性格が明るいとか、冗談が上手だとかそういうことではないです。そうではなくて、自分の人生の悲しみを見つめ、その経験を通じて、人の人生に対して優しく関わることができる。そういう明るさを持っているということですね。そういうことを考えると、社会的な弱者を弱者として虐げている社会というのは、決して本当に明るくはないということです。弱者をいたわることによって、実は、社会の構成メンバーがみんな幸せになるという不思議ですね。この不思議さというのは、私達はおそらく長い長い人類史の中で、理解してきたことなんだと思います。ただ私達は非常に軽薄なので、その長い長い歴史の中でやっとわかったこと。それをしばしば忘れてしまうという情けない存在であるわけです。社会というのは、利己的な個人で形成されていながら、実は利己的な個人だけでは、利己的な個人でさえ幸せになれないという逆説を抱えているということがポイントで、私達が弱者と言われる人たちが弱いままでいるのではなく、その人たちが社会的な強者にとっても、大きな希望となるということ。そのことを学んでいるわけです。だからこそ、社会的な弱者に対して、常に心に留め、自分たちのできることを少しでもやるということが、求められてるんではないかと思いますけれども、言ってみれば、その社会的な全体として強い人もいて弱い人もいて、しかし強い人が弱い人のことを庇うということを通じて、社会全体が明るくなる。こういう共同体を個人よりも大切にするという考え方。これは、社会を個人よりも大切にするという意味では、個人を何よりも優先する個人主義と反対に共同体主義あるいはもっとわかりやすい言葉で言えば、社会主義と言っていいと思います。

 社会主義という考え方は、昔は社会的な強者が世の中を支配することがこれが社会的な強者の利益を最大にすることだとそういうふうに思っていた時代には、危険思想であるとそういうふうに社会的な強者の側から弾圧されたものでありますが、それがそうではない。共同体全体のことを考えることが、社会的な強者にとっても大きなメリットを持っているということ。この発見がこの200年くらいの歴史を作ってきたんだと思います。私達がこのことを本当に社会の重要な原理であると理解したのは、まだ本当に最近のこと。150年程度の歴史しかないというふうに言うべきかも知れません。しかし、そのやっとわかったばかりのレッスンを私達は、先ほども言いましたように、つい忘れてしまう情けない人間であるということですね。

 そして、せっかくの共同体主義というのも、しばしば本当に矮小な個人主義を共同体に拡大しただけというふうになりがちで、共同体の利益を優先することが個人の利益を犠牲にすることの上に成り立つというような思想も、私達は経験してきてるわけです。それがいわゆるムラ社会というもので、村の中での団結は非常に強いですけど、所詮それは村の利益を代弁しているだけで、その村の中でも村全体として弱い人が強い人によって保護されているかというと、そうではなくて弱い人を犠牲にして、村の利益を優先する。そういうふうになりがちですね。とりわけムラ社会の欠点は、他の村に対して非寛容であることで、昔日本でもあった“水争い”。村が自分の村に、自分の村の田んぼに水を引くために、他の村に行くべき水を自分の村の方に流す。そして独占する。これは自分の村を全てに対して優先する。他の村のことはどうなっても良い。そういう思想です。私達はムラ社会の持っている、そういうセルフィッシュな利己的な見方、これがムラ社会の原理と矛盾しているということをきちっと理解する必要がある、と私は思います。

 社会的な弱者、社会的な強者。それは現代で言えば、単に腕力が強いとか弱いとかいうよりも、経済的に富んでいる人、あるいは経済的に貧しい人、そういうふうに言い換えることができるかもしれません。気の利いたことで利益をぱっと出す人、そして利益を奪われる人、そういうふうに言い換えることができるかもしれません。そういう現実を前にして、私達はどうすれば本当に自分が幸せになるのか。自分が幸せになることが、他人が幸せになることの犠牲の上に成り立つというのでは幸せなはずがないということ。このことを私達は学んできたんだと思います。ですから、弱者と強者がいるという言い方そのものは、本当は私は気に入らない。むしろ、弱者と強者という言い方の中に、昔ながらの非常にせせこましい考え方があって、私達はそれを克服するという歴史を作ってきたのではないかと思うんですね。それが、私の言葉で言えば、共同体主義ということです。共同体主義というのは、自分の共同体を他の共同体に対して、排他的に利益を守るというようなものでは本当の共同体主義にはならない。共同体主義というのはどんどんどんどん広がっていってこそ、本当の共同体主義となるということですね。共同体の持っている人間にとっての大切さということを、私達は忘れては決してならないと思います。

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