長岡亮介のよもやま話141「今どきの風潮では」

 今回は、最近もっぱら人々の間でよく話題となる「今どきの風潮では」というような言い方について考えてみたいと思います。今は、インターネットを介して、全ての人が同じように情報発信するっていうことができるようになっていて、その中にはとんでもない情報から、ある意味で、人を扇動するような意見まで、いろいろとあるわけでありますけれども、本当に大切な「しっかり考えて、そして決断して、実行する」という人間にとって最も基本的なことが軽視され、どちらかというと、「無難にこなす」ということが何も増して優先されている風潮を、しばしば私は感じます。「そんなことはやったらアウトだよ」というような言い方について、前にも触れましたが、私達は言論が自由な世界にいるわけでありますから、いかなる意見もきちっと理論立って言ったら、それに対してみんなが聞く耳を持たなければいけない。その言葉の中に使ってはいけない言葉がある、下品な言葉が使われたら、それは心地良くありませんけれども、そういうものでない限り、人々の主張それぞれの立場によって主張があり得るんだと。自分の意見と異なる主張があり得るんだ。これが「民主主義の基本」だと、私は子供の頃教えられました。反対派の意見に耳を傾けること。これが民主主義で最も大切なことだ。

 それが今では、「多数派の意見を取りさえすれば、それが人々の全体の意見を代弁してるんだ。多数派が大切だ。」こういうふうに本当に切り替わってるというか、入れ替わっている。そういう状況ではないかと思います。本当のことを言えば、多数派と言っても我が国の選挙の状況を見ればそうですが、投票率が50%もいかないところで、そこで多数派ということになると、全体の有権者の25%程度が多数派を形成するということになるわけで、これは論理的に考えればあり得ないことであるわけです。なんで選挙の投票率がそんなに低いのか。これは私も心を悩ませる頭の痛い問題であります。私達は普通選挙を実現するために多くの努力をしてきているわけですね。そして多くの血と涙がそこで流されている。そうやってやっと獲ち取った普通選挙であるのに、その選挙権を行使しない人々が過半数を占めるというような状況になっている。それには多くの理由があります。「誰が選ばれても政治は変わらない」という諦め。また「ろくな人が立候補してない。自分が支持したいと思うような人が立候補してない。」そういう理由。いろいろと合理的な理由があるでしょう。でも、みんなが諦めてしまっているということが、私はとても残念です。私達は言論の自由な世界に生きているわけですから、自分たちの意見を他人に対して、論駁されない形できちっという。他人が、言ってみればインターネットの世界で誹謗中傷のようなことをしたとしても、それに対して毅然としていることのできる、そういう誇りを持って自分の発言をする。そういう勇気を持つということが、第一に必要なのではないかと思うのです。とにかく「事なきを得て、自分の御身大切」というふうにみんなが考えてしまったら、この世の中は悪い方向に向くしかないと思うんです。

 ちょっと本当に昔のことを考えてもらえばわかるのですけれど。アメリカ合衆国というのは、ヨーロッパの国々の植民地から独立して、アメリカ合衆国として全体として一つの国を作る。その“アメリカ合衆国の建国宣言”、感動的な文章で語られていますけれども、そのアメリカ合衆国においてさえ、実は本当にごく最近まで“奴隷制”というとんでもない制度がありました。人々を奴隷として購入してきて、その購入者が自分の所有物として、人間の全ての自由を拘束する。足に鉄の鎖をつけて、あるいは手を鎖で縛って移動する。場合によっては命を奪うことさえ所有者の自由である。こんな今考えると馬鹿げたことが、つい最近まで行われてきたわけです。つい最近といっても、もちろん明治政府が始まる前の話というくらいの時代でありますけれども、そのアメリカにおいて、“奴隷制”という、これは言ってみれば白人の奴隷の所有者にとっては、富を生む、いわば金の卵のようなものですね。それを廃止するなんてとんでもない。そういうふうに考えていたでしょう。“奴隷制”を廃止しようとする人々、奴隷廃止論者は、主にキリスト教的な倫理感、道徳思想、そしてアメリカ合衆国の建国宣言「全ての人は平等に作られている」という聖書の理念と合致する建国の精神に矛盾するようなことが行われていること自身がおかしい。そう考えて、アメリカ自身が厳しい対立を経て、戦争を経て、内戦を経て、こんにちのアメリカの繁栄を獲ち取るところまで、きているわけです。もしそのときに、「奴隷制があった方が便利じゃないか。それが自分たちの財産なんだから、自分たちの財産についてとやかく言うのはやめにしてくれ」というような、今でも一部の州では聞かれるような、そんな発言が多数派を占めるような状況の中で、奴隷制の廃止を語るということは、どれほど勇気のいることであったかと思えば、私達がこんにち置かれている状況というのは、それよりは遥かに楽だと私はそう思うんですね。

 人々がやはりとやかく言われることを避けて、黙って悪を見過ごす。そういう無責任さから、自分自身が立派な民主主義の構成員として誇ることのできるような人間として、ちょっとでも頑張って生きようとする。その気持ちが大切ではないかと思うんです。「こんなことを言ったら叩かれる。こんなことを言ったら炎上する。こんなこと言ったら損だ。」そういう発想から、私達はやっぱり何のために生きているのか。その根本のところをしっかり考えて、どんな時代であっても、やるべきことはやるんだという勇気を持つ。一人だけでは勇気を持てないことがあります。そういうときに、その勇気を一緒に持ってくれる人たちとともに、励まし合いながら勇気を持つ。このことが、21世紀の今でも本当に強く強く求められているんだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました