今回もまた言葉の正しい使い方という古めかしいタイトルでお話したいと思います。とかく年寄りは、「最近の言葉が乱れてる」というようなことを言いたがる癖があって、若い人から疎んじられる原因の一つにもなっているかと思いますが、私は、むしろ若い人が新しい言葉を使うということに対して、非常に警戒心を持つべきじゃないかと思うということについて、お話したいと思います。古典的な話として、例えば監督が選手を激励するというようなときに「檄を飛ばす」というような事を今や公共放送のアナウンサーも平気でテレビで使うというくらい、ちょっと古典的な教養に欠けるところがあるなというふうに思います。檄を飛ばすの檄という時は木偏に激しいというのを檄に近い字を書くわけで、木偏であるということは、要するに書簡の形で全国に向けて、「さあ諸君、たち上がろうではないか」という、言ってみれば集団決起の呼びかけをするというのが元々の意味でありますから、ストライクとアウトのカウントに詰まったピッチャーに対して監督が檄を飛ばす、というようなことにおかしいわけですね。そのようなおかしさは、日本語のいたるところに見られて、これは教養がないせいだと言って済ますことができるわけですけれども、私は最近人々が使う現代的な科学用語に関する誤解について、今回はお話をしたいと思うんです。
それは典型的には、デジタル・アナログという情報についての基本的な考え方の違いがあるわけですね。デジタル情報とアナログ情報と本質的に違うわけです。そして、デジタル情報にすることによって情報の伝達が確実になり、その確実性によって、より情報量の大きい情報を確実に届けることができる。これはすごいことでありまして、アナログ時代のテレビがデジタル化することによって、コンパクトでかつ映像が精細であるというようなこと。音楽に関してもそうですが、デジタルリマスタリング、元々の音源をデジタル化して、もう一度そのマスターレコーディングに相当するものを作るということによって、より素晴らしい演奏になる。これは素晴らしいことです。デジタルというもの、これは皆さんはよく、0と1という簡単な信号に置き換えることだというふうに理解していると思うのです。それ自身は間違っているわけではないのですが、アナログというのは波で情報を伝えるのに対し、デジタルは0・1の信号で情報を送る。こういうふうに言うと全く違ったもののように思うのですが、0と1の信号をどうやって送るかというと、送信するときにはそれは波を使う以外にはないわけですね。波を使うことによってその波のある間隔において、その波がある基準値よりも高いならば1、低いならば0というふうに解釈しようということです。つまり情報伝達の基本は依然としてアナログ的な波であるのですが、それを処理するのにデジタルの考え方を利用しよう。これがこんにちの20世紀後半から一般化したデジタル革命という情報通信の革命であるわけです。アナログとデジタルっていうのが相互に対立的に語られるっていうこと自身が本当はおかしい。つまりアナログ情報の伝達という昔からの手法が基礎にあり、その基礎にあるアナログ情報の伝達をデジタ情報として解釈することによって、より情報量の多い、より精密な情報伝達が可能になるという、アナログとデジタルのふたつの共存。ここがポイントであるわけですね。アナログ派・デジタル派というふうに二つに分けるということは、そもそもできないという本質的な問題、それを忘れてはいけないと思うんですが。それ以上に、デジタルというと、何か精密で、厳密で、そして冷たくて、アナログというと、なんかふんわりしていて、包容力があって、人間的に円満である、人間的に円熟の境地にある、こういうのをアナログっていうふうに言ったりするっていうのは、全くおかしなことであるということが、以上の話でも明らかだと思うんです。私はアナログとデジタルの誤解に関しては、あまり深刻でないと思うんです。
私が今非常に心配しているのは、学校での授業に関して、「従来はインプット型であった。しかしながらこれからの事業は、アウトプット型でなければならない」という勇ましい議論が聞こえてくることです。インプット型の授業というのはおそらく言いたいのは、先生が情報発信し、学生がそれをインプットとして受け取るというだけということでしょう。それに対してアウトプットっていうのは、学生があるいは生徒が自分たちの方から意見を発信するということを、きっと意味してるに違いないと私は想像するのですが、そもそも、インプットとアウトプットっていうのはどういう意味であるかというと、日本語ではよく入力・出力というふうに訳されていますが、ある信号をある装置に入れると、その装置の中の仕組みによって、別の情報が出力としてアウトプットとして出てくるということ。インとアウトっていうのが、情報の入る出るを決めているわけでありまして、コンピュータというのは、インプットが決まればアウトプットが決まる。アウトプットっていうのは、インプットによって決まるわけですね、完全に。今いろいろな新しいAIのような難しいテクノロジーが出てきていますけれども、それであったとしても、本質においてはインプットがアウトプットを決めているわけでありまして、決して生徒が自発的に考えることをアウトプット型の授業というふうに言うのは全くおかしい。もし、インプット・アウトプットっていう形で授業を言うならば、先生が入力するものに対して、生徒たちが一様に同じ答えをアウトプットする、とんでもない授業ということに私はなると思うんですね。このようなインプット・アウトプットというような言葉が、学校の先生、特にインプット・アウトプットっていう言葉を知っているはずの英語の先生たちからも出てくるということは、私達国民がいかに科学的なリテラシーに関して根本的な理解を欠いているかということの証明ではないかと思い、とても心配になるわけです。コンピューター関係の言葉は、今や世界の標準語というくらい普及していますので、その中で最も重要なインプット・アウトプットという考え方が授業の中に取り入れられるということは、私はとんでもない間違いだというふうに思います。授業というのは、先生が一つの授業をする、それを仮にインプットと言ったとしても、実は子どもたちからは、実に多様なアウトプットが出てくる。つまりコンピュータではない子供たちから、コンピュータではない様々な多様な出力が出てくる。その出力が出てくるっていうところでは、もはやインプット・アウトプットっていう言葉自体が通用していないんだということに理解がいかないといけない、と私は考えます。人間のコミュニケーションというのは、決してインプット・アウトプットというようなコンピュータ用語で語られる、そういうものでは全くないということです。
同じようなコンピュータ用語の誤解に、これも定着してしまってほとんどもう無理かと思いますが、ハッカーって言葉があります。ハッキングという言葉。これはコンピュータに対して侵入して、その悪さをするということだと。そして悪さをする人のことをハッカーと言うんだと。こういうふうに一般にジャーナリズムの世界でも思われています。ジャーナリストがその程度の理解しかしてないから、一般の人々が誤解するのは仕方がないことであるかもしれませんけども、ハッキングという言葉は、本来はコンピュータプログラマにとっていわば非常に尊敬されることでありまして、難しいプログラミングすることをハッキングって言うんですね。ハックするっていうことは、平凡なプログラマーではできないようなことをやる。素敵なことなんです。英語ではハッピーハッキングっていうこともあるくらいであります。その言葉がハッキングって言葉を全然知らない人によって誤解して流布してしまっている。他人のコンピュータに入り込んで悪さをするというのは、英語では普通はクラックといいます。そしてクラックする人のことをクラッカー、あるいはクラッカーズと呼びます。クラックっていうのは犯罪でありますが、ハッカー、あるいはハッキングというのは犯罪者でも犯罪することでもない。この言葉も、コンピュータに関する基本的な無知が呼んでいるところのものではないかと思いますね。
一昔前は、Webサーバーに関してホームページという言葉が流布していて、一時は日本の行政機関でさえHPなという変な略称を使っていました。さすがにそれは国際的に恥ずかしくなったのか、すっかりその言葉は影を潜めましたけれども、その代わりにWebサーバーというような言い方がなされるようになりましたけども、ホームページというのは、コンピュータ上のインターネットの中で使われる重要な概念なんですが、それはWebサーバーとは全く意味が違う。ある特定のWebサーバーの基本となっている情報、それを述べたindex.HTMLというファイル、ホームにあるファイルのことを言ってるだけなんですね。それが誤解されて、HPなどという言い方が、つい最近まで世の中を風靡してました。この言葉が一掃されたのは、とてもありがたい良いことだっていうふうに思いますけれども。言葉を切り替えるときに、それまで間違えていましたっていうふうにジャーナリストがきちっと謝罪するならばいいのですが、いつの間にかなし崩し的に終わってしまうということが我が国の特徴のようで、やはり責任を負って言葉を使うという習慣が、私達国民の間にないということ、それを表してるんではないかと思います。未だに多くの過ちが含まれているジャーナリスティックな情報ではありますけれども、その中から、「今までは間違っていたけれどもこれからは正しく使いましょう」というような声が出てくることを期待しております。
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