長岡亮介のよもやま話136「若さの定義」

 私は、これを聞いてくださっている皆さんと比べるとかなり高齢の人間であります。私は自分が若い頃、年を取ったらどんなに人生を達観して清明な境地に達するのだろうと考えておりましたが、あまり年を取っても立派人間になるというわけではないということを、自分自身を見ていてつくづく感じます。大げさに言うと、20代あるいは30代の頃と比べて、75を過ぎた今その40年50年の間にどれほど成長したかと考えると、実にわずかな変化しかない。昔20代30代の頃書いたものを読んで、今自分が書いてるものとあまり変わらないな。そういうふうに感ずることが多いのです。それは私が成長してないということで、結局は若死にしても長生きしてもあまり大差なかったという見方ができるかと思うととても残念なんですが、やはり若いということと年をとっているということの一番の違いは何かと言えば、キビキビと運動するとかそういう能力の違いではなくて、むしろキビキビと知性が成熟するかという違いだと思うんですね。つまり、一つ一つの体験を通じて、新しい自分自身に生まれ変わってくというような成長の喜び。それが、若い頃はそういう経験に満ち溢れている。ある意味で、明日の自分は今日の自分とは違っているだろうと。昨日の自分と今日の自分は違うのだから、同じように明日の自分、そして明後日の自分は変わっていくだろうと。そういう実感ですね。特に若い頃読書をすると、その1冊の読書を通じて、自分は今までなんと愚かだ人間であっただろうと。このようなものの見方を知ることができないでいたなんて、なんて暗い人生だったんだろう。これからは、こういう新しいものの見方を通じて、新しい人生を切り開いていこう。そういうふうに思ったものであります。

 今は視力が低下して、書籍を読むということがあまりできなくなり、電子的な情報いわゆるPDFファイルのようなものをものすごく字を拡大して、虫眼鏡を通して読むということなので、読書量っていう点では決定的に下がったと思いますけれども、それでも今でも新しい本を読んで感動するということは、しばしばあります。それでも、その感動が若い頃と違って、この感動を知ったからには、自分の人生は今日からは変わっていく。そういう大きな感動ではなくて、小さな感動というのでしょうか、なるほどふむふむ面白いなという程度の感動で終わってしまっていて、自分の人生が、これですっかり変わるんだという感じが少なくなってるということ。それは読書だけじゃなくて、絵画や彫刻を見ても、あるいは音楽を聞いても、若い頃は本当にその晩眠れなくなるくらい大きな衝撃を受けていたのに、最近はそのような立派なものに出会っても、スヤスヤとその晩寝てしまう。そういうふうな感動が薄れている、あるいは感動が日常化してしまって、平たいものになっているということを認めざるを得ないような印象を持っています。ということは、結局のところ、若い頃と年取とってから何が違うかというと、大きな出来事に接して、それが人生の転機となるというような強い衝撃を受けて、あるいは強い印象を受けて、自分の生き方が変わっていくようなそういう経験をしやすい時期と、経験があまりにも蓄積していて、新しく付け加えるものがプラス1、昔だったらば10に1を加えると11になるのですごく大きかったんですが、75に1を加えると76、同じ1増えるっていうのも、比で考えると全然違う。そういう例えがぴったりするような日々なんだなっていうふうに思います。

 そして、完全に老化していくということは、毎日毎日が何の変化もない、何の感動もない日常になってってしまうということではないか。そういうふうに考えると私は幸いな事に、毎日毎日新しい思索の可能性の領域、それを発見して、それに興奮しています。そういう意味では、まだまだ死ぬ境地には達してないのかなと。もう少し考え続けなければいけないのかな。そういうふうに思う日々でありますが、皆さんはいかがでしょうか。毎日毎日暮らしていて、昨日の延長で今日生きてる。今日の延長で明日生きるということになっていないか。毎日毎日が成長の日々である。あるいは感動の体験の積み重ねである。そういう毎日を生きていて、いらっしゃるでしょうか。結局、若いとか年を取っているとか言っても、一番大きな違いはそういう日々の新しい出会い、私の言葉で言えば“学習”でありますが、その経験を通して、自分自身が変わっていく。そういう喜びを発見できるかどうかということが、“若さ”の定義ではないかと考えています。

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