長岡亮介のよもやま話135「“天”と“心”」

 私達日本人は最近は、いわゆる宗教という問題と遠く離れて生きているのが一般的になっています。反対に宗教心の強い人を見て、あの人は宗教がかっているからといって遠ざけたりすることさえあるくらいです。昔は、宗教といういわば人間の存在を超えたものを信じて生きている人たちのことを、“敬虔な”という形容詞をつけて、呼んだものであります。尊敬していたわけですね。目に見えるものを触れるもの、そういうものの背後にある超越的な存在、それに対して常に謙虚な姿勢をとっているということに対して、私達はそれを気高いことだというふうに考えていたのですが、最近は宗教がかっているとか、あるいは論理に合わないと言って、その人たちとのコミュニケーションを絶ってしまうということが少なくありません。しかしながら、確かに「現在宗教が現代社会に対してどういう意味を持っているのか」という宗教の側からの情報発信が少し乏しくなってるようにも思います。キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、国際平和に関する情報メッセージでかなりたくさん発信してるんですが、私達にはごく偏ったものしか入ってきていない。そのために多くの宗教の中で、言ってみれば昔の宗教改革に相当するような大きな運動が起きているということに目がいかない恐れがあります。私は、日本の中にいて日本の仏教界が本当に堕落した時代、長い時代を経て、仏教自身が自己変革を遂げようとしている、特に浄土真宗なんかはある意味で革命的と言っていいくらい大きな変革をしようとしているということを感じておりますが、葬式仏教というふうに言われてしまうと、そういう宗教改革も見えなくなってしまうでしょう。そもそも仏教家が一般の日本人に対して、「仏教とは何か。どういう教えか」というのを情報発信する。それが上手にできていないということが、私は一番深刻ではないかと思っています。

 というのは私は最近ある人から、有名なお寺に行ってお坊さんの説教を聞いた。その中で心に残ったのは、「キリスト教と仏教との違いはなんだかわかりますか」というような、馬鹿みたいな問い、その問い自身が馬鹿げているわけですね。なぜならば、二つの宗教を並べて論ずるということは、それ自身非常に難しい問題で、これが簡単に問題解決するならば、宗教間対立なんてのは起き得ないわけです。そういうことを全く無視した問いで問い自身が無意味ですけど、その問いの答えがもっと笑ってしまいました。それは、キリスト教では“天にまします我らの主よ”というふうに言う。つまり、自分たちの主と崇める神が天に存在するというふうに考える。それに対して仏教では、「仏というのは各自の心の内にある。その違いが大きいんだ」という説明をして、一般の参観者の人たちは納得したんだと思いますが、私に言わせると、「天に存在する」というのと、「心の中に存在する」。その二つはすごく通俗的な言葉としてわかりやすいですけれども、まず第一に「存在するとは何か」という哲学の一番重要な問題について全く語っていない。そしてもっと重要なのは、“天”と“心”という対比的に語られているものが、まるで「自分の身体を超えた天上、上方世界に存在する。」「その自分の心の内、体の皮膚の中に存在する、身体の中に存在する。」というふうに誤解しているがごとき、現代人の誤解そのものによって立っているわけですね。その仏法講話なるものが、そもそも庶民の無知あるいは坊さんの無知によって成り立っているという現実に多くの人が気づいていない。私達は人間にとって“心”が本当に大切なもんだと思いますけれども、その“心”がどこにあるのか、心臓にあるわけではないですね。確かに人間の“心”のことをハートといい、心臓のことハートと言いますが、心臓という臓器が“心”なわけではない。そして私達の“心”が心臓という臓器に宿っているわけではありません。もちろん、頭脳に宿っているわけでもない。私達の体の中のどの部分にどういう形で存在しているか。そういう機械学的なアプローチでは“心”の問題っていうのは片づかないでしょう。“心”は非常に不思議なものです。私達の身体を超えて、“心”というものが存在する。だからこそ、私達は困ってる人たちにその人たちを助けてあげなくちゃならない。そういうふうに思うわけですね。私達の“心”が、私達の身体を超えて他の人々と共感を持つ。これが“心”の不思議な動きです。人間の“心”は、ある意味で宇宙に広がっていると言ってもいいくらいですね。

 一方“天”というふうな言葉を言うときには、イエス・キリストが生きていた時代、つまり紀元前1世紀の頃というのは、ある意味で“天”といったところで、せいぜい青く見える空というようなイメージしか一般の人々は持っていなかったでしょう。青く見える空というのは、大気圏の色を見ているすぎないわけでありまして、大気圏というのは地球を覆っている非常に薄い大気の膜なわけですね。その膜を突き抜けたところには、いわば真空の宇宙空間が広がっているわけで、度々私がこの中で取り上げる国際宇宙ステーションなどというのを、宇宙ステーションというのはおかしいんであって、あれは宇宙に行くための、言ってみれば地球に最も近い基地。まだ宇宙に脱してない地球の重力圏内なんですね。その地球の重力圏内すれすれのところ、大気圏外すれすれのところ、それを周回してるにすぎないわけで、宇宙というのは、あるいは“天”というのは、その先であるわけです。その先は、普通は恒星しかない、いわば真空の真っ暗闇ですね。そして、望遠鏡を用いて、遥か彼方の180億年前の世界というのが私達に目に見えるということでありますけれども、普通に言えば、“天”とは何かといったときに、自分の地球の地面の下の反対方向をもって“天”だと思っていた人々、イエス・キリストそうだったと思いますし、お釈迦さんもそうだったと思います。天上天下唯我独尊って言ったときの“天”も、せいぜいそのようなイメージであったんじゃないかと思います。

 天についての本当に正しい理解が開拓される大きなきっかけは、Galileo_Galileiによる天体望遠鏡を用いた宇宙の観察でありました。まだその頃は天体といっても、太陽系のことくらいしかわかってなかったわけですが、それがやがてハッブルによって銀河系を超えた世界にまで、私達の物理学的な研究の視野が及ぶようになる。私達は今そういうすごくありがたい時代に生きているわけですが、そのときに、“天”とは何か、よくわかりませんね。その真空の中で見えない秩序で活動しているいわゆる天体全体を持って“天”というふうに言うならば、まさに宇宙のことそのものであって、宇宙というのは、全てのものを包み込んでいて、しかも全ての物の動きを司っている。そして宇宙が、お互いに宇宙の中を構成している天体が相互に力を及ぼし合いながら、進化している。そういう不思議な世界。それが“天”です。キリストが「天にまします我らの父よ」と言ったときに、そのようなダイナミックな宇宙像を持っていたかというと、普通には否定的にしか考えられませんけれども、しかしながら、今考えてみると、まさに天が持っている不思議な秩序、それを維持せしめているものというのは、まさに自然法則でありまして、自然法則というのは、law of nature、あるいはnatural lawっていいます。lawというのは法則と訳してもいいんですが、実は法律と訳すこともできる。天が法律に従って動いてる。法律をして法律せしめているものは何か。法律を定めているもの、あるいは法律を守らせているもの、その法律が成立するための権力構造ですね。それは何か。それが“天”だ。そしてあるいは神だというふうに言えば、真に近代的な解釈であります。

 かつてホーキングは、「天の説明をするために神は必要ない。」そういうふうに言いました。ホーキングは、まさに「自然法則だけを用いて数学的に全て説明がつく。数学的な説明で、神は不必要になる。」そういうふうに言いましたけれども、しかし、数学的な説明がなぜ成立するのか。なぜ全てのところで数学的な説明が正しいのか。その数学的な説明を支えている力は何かということを考えると、やはり不思議な目に見えない存在、崇高な存在に惹かれるという気持ちもわからなくはないわけです。そして、そのような天の運動さえ支える、そういう巨大な世界を支えている神が、一人一人の心の中に存在するとすれば、これまた素晴らしいことで、一人の人間が宇宙全体を想像することができるということも、そのような神の持っている普遍性、つまりどこに具体的にどんな形で存在するかってのはなくて、ありとあらゆるところに、あらゆる形をとって存在している。それを昔は遍在というふうに言ったものでありますけれども、こういうのは宗教的にはどちらかというと異端思想になるのかもしれませんが、私が最近その仏教の講話をわざわざ聞きに行って、そんな話で感動したという話を聞いて、ちょっとあまりにも坊さんも聞いてる人も無教養なのではないか。そういうふうに感じて、今のお話をしてみました。

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