長岡亮介のよもやま話127「流行に振り回されること」

 現代社会は、資本主義というルールにのっとって運営されてるように思いますが、そういうふうに思ってる人も多いと思いますが、日本社会を縛っている原理は、必ずしも資本を投下した人がその資本を最大にするという目的で社会が動いているかっていうと、必ずしもそうではないように私は思うんです。確かに資本の論理っていうのは大きなものがあるということは確かですが、実は巨大資本の思うままに生きているというよりは、むしろ非常に小賢しい、小さな資本、それをさらにちょっとでも大きくしようとするせせこましい資本主義とでも言った方がいいんでしょうか。なんといっても、1億総宣伝主、広告主という時代に入っているのではないかと思います。インターネット上の情報発信がほとんど無料でできるということもあって、それに人気を集めれば、テレビ広告並みの収入が保証されるということもあるのでしょうか。ともかく広告宣伝の類がやたらに多い。私達はそういうものからできるだけ自由でいたいと思うのに、いやが上にもそのようなものを見せつけられ、今私達は資本主義という言葉をどうしても使うんだったらば、広告資本主義とでも言うべきもの。言ったもん勝ち、嘘でも何でもいいから、とにかく言ったもん勝ちという世界に生きているような気がします。嘘でも何でもいいからというのはもちろん言い過ぎで、嘘だったら誰も聞く耳を持たないはずと思うところなんですが、実はそうでもないみたいなんですね。ともかく、自分の素性を隠してでも情報発信する。それはかなり高級な方で、場合によっては売名行為と一体となって情報発信する。そういう情報が健全な人が聞いたらば嘘に決まってるというふうに見抜けるものであれば良いのですけれど、何となくそれを聞いてるとその気になってしまううまい嘘に、インターネットが溢れているということに、私は不安を感じます。昔、ナチスの広告宣伝相であったゲッベルスは、「嘘でも何でもいい。何回も繰り返していれば、人々はそれを信ずるようになるんだ」と言ったと言われていますが、まさにそのゲッベルスの言うような世の中になってきているというのを感じるんですね。それでも、たわいのない嘘。例えばこうすればあなたは健康になりますとか、こうすればあなたは年寄りになりませんとか、こうすればあなたは100歳まで生きられますとか、そういうのは言ってみれば、人間の弱みにつけ込んだかわいい嘘だと思うんですね。

 私はやはりその中で、これは許せないなと思うのは、人々を巻き込んでいく嘘です。そして、しばしは善良な人々がその嘘に巻き込まれていく。そのことは、私としては耐えられないという気持ちがあります。例えて言えば、最近流行りであったのは、COVID-19、コロナウイルス2019年型それの大流行でありました。そして、その大流行が今は一段落したということで、分類もさして心配なものでないというところに落ち着いているのですけれど、それは一体いかなる奇跡的な仕事によってなされたのでしょう。私達人類が発明、あるいは発見した新しい科学的な知見を通じて、日本では新型コロナウイルスと言われているものが、いつの間にか旧型になったということなのでしょうか。コロナウイルスに効く、あるいはコロナウイルスに感染しても重症化しない、そういう効果があると言われたウイルスのワクチン。それは効くということがきちっと証明されているのでしょうか。私は不勉強にして、あまりその手の最新情報を追いかけることを最近はさぼっています。アメリカのCDCのような一種の軍隊組織では、本当にそれに進んで協力する人もいて、かなり客観的なデータが大量に収集されているはずで、私は今から数年前こそ、毎日CDCのウェブサイトに行って新しい情報を探しておりましたが、その新しい情報というのは、しばらくすると日本の評論家の口からさも昔から知ってるかのように語られることで、アメリカ発の情報発信が世界を席巻していた。反対に言うと、CDCのようなセンターの発信する情報以外、本当に信頼できる情報が私達の身の回りになかった。これがとっても恐ろしいことでした。果たして人類未曾有の危機。私の大好きなトム・ハンクスが主演しているラングドンシリーズという映画の中では、その最後に人類の爆発的な増大を防ぐためにウイルスを拡散するという話が出てきます。日本では「インフェルノ」という表題で有名ですが、ダンテの地獄編に相当するような地獄の絵が実際に現実の世の中に起こる。ある意味で時代を先駆けした非常に面白い映画でありました。

 そういう恐ろしいウイルスが、製薬会社の開発した、普通は5年かかるとか7年かかる最低でもそのようにかかるというものが1年くらいで開発され、そして人々に売られ、あるいは人々が買ってることも知らず国家が買い、それによって国の財政を悪化させ、それでその犠牲の上に私達はそのウイルスに打ち勝ったのでしょうか。打ち勝ったのだとすれば、それは何によってなのでしょうか。ウイルスが流行し始めてきたときにみんなが大騒ぎしていたほどには、今その大騒ぎが無くなっています。無くなったきちっとした理由があるのでしょうか。結局のところテレビなどの決して品質が高いとは言えないマスコミという、大衆を扇動するような情報機関の発信する「情報」、それに私達が振り回されていただけではないでしょうか。私達は未だに本当のことを知らないのではないか。私の知っている専門家の話では、ともかくウイルスというのは厄介で、やたらに賢くて、というより人間の知恵を大きく上回っている。そういう挙動をするもので、その対策は容易なことでないということ。手洗いとうがいと洗髪、そういったもの以外にはほとんど手の打ちようがないということを、ずっと昔から聞かされてきましたけれど、私達は、高価なワクチンを国費でもってずいぶん余らすまで購入したそうですが、それがなんと旧型のまだ変異してない伝統的なウイルスの株に対しての有効性が示されただけであったというような話も、最近になってようやく出てきている。そして、そのようなワクチン接種を、私を含め高齢者のように弱い人たちに対して、継続してやっていこうっていう話も出ているんですが、ではワクチンは効くのか効かないのか。効く人がいて効かない人もいるということなのか。副反応は一体どうなったのか。深刻な副反応も報告されていますが、それについてどのようなことが科学的に言いうるのか。ウイルス学のように先端的な学問においては、科学的に判断するということは非常に難しい。なぜならばそれは膨大な経験の蓄積というものがほとんどないからで、わずか数年間のデータに基づいて判断しなければいけない。しかしながら、私達はものすごい大量な数の患者のデータを持っているわけですから、これに相当するような病気はかつてなかったというくらい豊富な科学的なデータに溢れているわけですから、それをきちっと公開し分析できるような、単なる情報ではなくて、データとして科学的なデータとして処理する体制が整っているべきだと思うのですが。我が国を始め、それができていない国も少なくないでしょうね。そしてそこでは相変わらず運の悪い人が犠牲になる。まるで本当に昔の天保の飢饉とかって言われる頃と、何も変わらない状況が今も続いているのではないかと思います。私達がテレビなどつまらないマスコミの発信する情報を鵜呑みにしている。そのために、私達が最先端の科学から置き去りにされている。こういう危機的な状況なんだと思います。私達は少しでも最先端で戦っている科学者たちの知見を少しでも共有したい、と願うのですがその道は日本では固く閉ざされている。辛うじて、インターネットを通じて国際的な情報に触れる。そういうことができるだけだということですね。

 私達の手元に入る情報に振り回されているっていうことを、もう一つの例として、「働き方改革」というようないかがわしい表現、あるいはもう少し前から外国で流行った言葉でありますが、テレワークという言葉。それが結びついて、非常に奇妙な形式が日本で普及しつつある。それに私は不安を感じています。「働き方改革」というのは何なんでしょう。それは、生き生きと働くことができ、そしてその働いた成果をみんなと分かち合い、働くこと自身が喜びになること。これが働き方改革ではないでしょうか。奴隷のように、自分がやりたくないことを仕事に縛り付けられて、やらされる。そういう毎日が続いているとすれば、それはとんでもないことですね。やりたくもない仕事を、それが仕事だからという理由で押し付けられてるんだとすれば、それはまさに奴隷としか言いようがない仕事だと私は思います。しかし、現代の私達は、まさに奴隷のような毎日を送らされているのでしょうか。もしそのように奴隷のような毎日を送ってる人々がいたら、私はその人たちにぜひ言いたい。「奴隷から解放されようよ。いつまでも奴隷で必要はないんだよ。あんたが頑張れば、奴隷から解放されるそういう日々にやってくるんだ。もし、あなたが『いや、自分はいつまでも奴隷だ。所詮奴隷にすぎないんだ』と、自分を卑下するならば、あなたを奴隷に縛っている本当の究極の鉄の鎖は何ですか」と、あなたに問いたい。会社の言うことだから、あるいは上司の言うことだから、それに従わなければならないという人がいるかもしれません。だったら、そんな会社、そんな上司、くそくらえと言ってやめたらいいんじゃないですか。あなたが会社に結びつき、あるいは上司のご機嫌を伺わなければならないというのは、その会社で我慢することにより、あるいは上司に媚びへつらうことによって、あなたの未来があなた自身のかけがえのない未来がそのようにして開かれていくに違いないと期待してるからではないでしょうか。もしあなたの未来がそのようなものと無縁に開かれるならば、そんなくだらん会社くだらん上司に縛り付けられてる理由は何もないと言うべきなんです。

 先ほどの例と、結びつけて考えるならば、流行のウイルスに対して免疫機能がある。このワクチンを打てばあなたの寿命が10年延びる。そういうことは科学的に証明され、そしてその結果を受け入れて、副反応があるかもしれないが、メリットの方が大きい。デメリットとメリットを秤にかけて自分はそれを選択するんだ。そういうような仕方で、あなたが毎日の人生を生きているんだとすれば、それは「上司の不平を言うとか、会社の不平を言う」ということの方がおかしいわけで、それは自分の選択だと言わなければいけない。あなた自身が選んでることじゃないか。ワクチンを打って、それで大きな副反応に悩んでる人、たくさん私も個人的に知っています。しかし、副反応があることを知っていて、それはきっと大したものでないに違いない。国のやることだからそんなに間違っていることはないに決まっている。そういうふうに、国家の政策を信じて、国の総理大臣たる人たちが、その人たちの周辺にいる医療関係者たちが間違えるはずがない。そんな嘘を言うはずがないと信じて突き進んだ自分の責任。それを無視することは、私はやはりおかしいと思うんです。それは、アメリカの特に南部で強制的に働かされた奴隷たち。その奴隷というのは、アフリカの種族の中での戦争で敗れたために、敗戦の結果として奴隷商人に売られた。そういう人々の末裔であり、その人たちには何の合理的な根拠があったわけでもない。ただ部族が戦争に負けたために自分が奴隷にさせられてしまったという非常に不条理なことであるわけですね。そのような奴隷だった人々が解放され、肌の色と無関係な基本的人権をきちっと謳歌できる。そういう世の中に生きる。当たり前のことですよね。そのことが許されないっていうことの方がおかしい。しかし、もし奴隷として生きるということを、自分の選択肢として選んだ人が奴隷として生きてるんだとすれば、それはもはや誰も同情しないし、それはあなたの責任だというのではないでしょうか。私は一時流行った「自己責任」という言葉は決して好きではありません。人間は自分の人生に対してでさえ、責任を負えるような立派な存在ではないということは私の基本です。ですから、自己責任という言葉を使って人々を責めようとは思いません。

 しかしながら、何らかの意味で自分が自由になるということを放棄しているということについて、最小限の義務を負っているのではないかという自覚を持つことは必要だ。そういうふうに私は考えている次第です。いろいろな情報の氾濫する時代で、何を信じていいかわからないという皆さんと、私は全く気持ちを同じくするものです。何を信じていいかわからないという、何かを求めるんではなくて、自分のうちにこれは揺るぎえない信念というものを、少しずつでいいから形作っていくように、日々努力していく以外手がない。それくらいひどい時代に私達は生きているということを、日々自覚するようにいたしましょう。

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