長岡亮介のよもやま話123「数学的とはどういうことか」

 今回は少しいつもの、私はSmallTalkという呼んでいるのですが、よもやま話というシリーズの中で、少し異質な数学よりの話をしたい思います。ちなみに、SmallTalkというのは、今はやりの人工知能のための言語としてかつて脚光を浴びてもので、今ではあまり知る人が少なくなってしまいました。さて、「数学的とはどういうことか」ということについて、少し広い視野からお話してみたいと思います。多くの人は、「数学的というのは、数で語ることのできる世界についての話である」と、そういうふうに理解していらっしゃるのではないかと思うんですね。数学をやっていると、計算が強いのでしょうとか、数を覚えるのが得意なんでしょうと、そういうイメージがあります。確かに数学的な才能の中に、数を何万桁もやすやすと暗唱する特殊な能力を持った方がいまして、お医者さんの世界ではそれをアスペルガー症候群というふうに呼んだりもする精神障害の一種と見られがちでありますが、人間の持っている多様な能力の一面ということができますね。

 しかし、数学的な能力と、そういう数字に関する、あるいは数の並びに関する特殊な記憶とは少し違います。と、私は思うんです。数学者の中には、そういうことを覚えるのが得意な人もいると思いますが、私の知る限り、最も国際的に尊敬されている小平邦彦先生も、決して記憶が素晴らしかったというわけではありません。ものすごく思考力が深かった。小平先生ならではの素晴らしい切れ味というのを、私は今も印象深く思っていますが、それは、数についての話では全くないんですね。それを強調したいと思います。数学では、もちろん数の計算ではなくて、論証が大切である。そういうふうに、より深く理解してる方もいらっしゃると思います。厳密な論理的な論証。もう少し哲学的な言葉で言えば、演繹的な論理。これは数学の重要な武器であり、数学のコミュニケーションのツールとして、必須不可欠なものでありますけれども、しかし、数学において、論理性というのは、数学を語る上で重要な特性の一つであって、それが全てではない。むしろ「数学は論理を超えたところに存在するある種の世界についての描写の仕方」なんですね。そう言ってもピンとこないかもしれません。どういうことかというと、「数学というのは、物事をできるだけ本質に迫ろうとする。物事の偶然的な性質、それをそぎ落として、ある性質を成り立たしめているところの、その本質的な基盤はどこにあるのかということを考える。」そういう学問であるというと、何か哲学と同じじゃないかというふうに理解されるかもしれません。もしかするとそれは誤解ではなくて、まさに本来哲学とはそうあるべきものだという点で言えば、現代では数学こそが哲学であると言っても言い過ぎではない、と私自身は考えているのですが。というのも、哲学の中には、ある意味でChatGPTのような上手いセリフだけで勝負をしている、そういう人たちがいるのも事実でありまして、哲学というのは本来そういうものでは全くなく、数学的な厳密性それ以上に重要な哲学的厳密性でもって、事柄の本質を取り出す。そういう学問であると思いますが、数学の場合は、哲学的厳密性はとりあえず置いておいて、哲学的厳密性ということについて語り出すと、ある意味で宗教論争のようになり、収拾がつかない。そこで、数学的な世界では、数学的な厳密性だけにこだわって議論をするわけです。しかしながら、そこで数学的な厳密性というのは道具であって、目的ではないということが重要なんですね。数学では、数学的世界を叙述する。数学的な世界というのは、ごく日常的にありとあらゆるところにあるんですけど、その本質が様々な付属的な要因が重なっていて見えない。そのときに、それをそぎ落としていって、付属的なものを全部そぎ落としていって、本質的なものを取り出そうとする。それが数学的な思考であり、そういうふうにして展開されるのが数学的な世界なんです。

 こういう言い方だけではピンとこない人もいると思いますので、皆さんが誰でも知ってる足し算を例にとりましょう。かつて有名なイマヌエル・カントという哲学者は、『純粋理性批判』という彼の最も重要な著作において、「5+7=12」という数式を取り上げて、「5」という概念、「7」という概念、および「+」という概念。その概念をいくら分析しても、「12」という概念は出てこないと言い、であるから「5+7=12」のような数学的な主張を、カントはそれを「判断」というわけですが、この「判断」は、総合的なそれでいて決して人に教えられたものではない、先天的な、経験に先立ってわかる、先見的と言ってもいいですが、アプリオリで、総合的な判断である。そういうふうに言ったわけです。これは、私は、なかなか鋭い主張だと思うのですけれど、現代数学の立場から見れば、5とは何か。足すとは何か。ということを、じっと考えると、実は5っていうのは何か。それは4に1を足した数である。4とは何か。3に1を足した数である。3とは何か。2に1を足した数である。2とは何か。1に1を足した数である。と、こういうふうに言うと、「5」という概念は、「1」という概念に「+1」という概念を繰り返し使うことによって、得られるわけですね。つまり、重要なのは、出発点となる「1とは何か」ということであり、「+1」とは何かという概念。この二つを了解してもらえば、「5」という概念を作ることができる。同様に「7」という概念を作ることもできる。「+7」という概念も、実は「+1」という概念に翻訳することができる、ということがわかる。となると、カントが問題としていた「5+7=12」という「判断」。私達の言葉では数学的な命題。数学的な定理。それは、前提となるものが、「1」という概念と、「+1」という概念、この二つであるということがわかる。ここで「1」とは何か。「+1」とは何かというふうに語り出すと、これが哲学になるわけです。私達は、数学の世界では、あえて「1」とは何か。「+1」とは何か。という問いは、あえて問わないというところに特徴を持ってるわけです。数学は何でもかんでも語れるわけではない。数学においても語り得ないものについては、沈黙しなければならない。

 語り得ないものについて沈黙するということが、実は数学だけではなく、近代に始まる自然科学と言われる学問の最も重要な出発点であって、私達人間は、全てのことについて、なぜなぜなぜと問いたくなります。「なぜ私達は生きているの」、「生きている目的は何なの」、そして「どうして死んでいかなければならないの。」これは私達人間にとって非常にシリアスな問いです。しかしその問いについて、答えることをあえて保留する。その問いに答えるためには、何をその前に応えなければいけないか。問いそのものを成立せしめているところの要素、それを取り出して来る。これを哲学では行ってるんだと思いますが、数学では、「生きるとは何か」、「死とは何か」、「愛とは何か」ということは、とりあえず問題とせず、「5+7=12」というような小学生でも知ってるような問いに対して、この問いとその答えを成立せしめている根拠は何か、ということを問題とするわけです。

 数の場合とあまりにも単純すぎるでしょうから、例えば皆さんにとって親しみやすいと普通は思われている空間、これを例にしてみましょう。私達は子供でも直線は1次元、平面を2次元、空間は3次元。こういうような言い方をよく使います。一方向だけに伸びているものは1次元。それに対して、一方向だけではなくそれと無関係の方向、普通は直交する方向っていうふうに言いますが、に伸びているものは2次元。そのような2次元に対して、その二つの方向のいずれにも直交する方向にも伸びているものを3次元と言う。こういうふうな理解の仕方でありますね。そうすると数学者は、次元とはそもそも何か。そして、次元というのについて、1次元、2次元、3次元はいいとして、4次元以上は考えることができないのかという問題。一般に、5次元、6次元、7次元、8次元、100次元というふうに考えることができないのかという、論理的な可能性を考えます。数学では、皆さんはご存知かもしれませんが、一般に大学生であれば誰でも勉強する線形代数という分野においては、一般にN次元空間という言い方で、自然数の次元を持つ空間を抽象的に一般的に扱います。Nは3でも4でも5でも100でも何でもいい。そういう空間の性質はどうあるべきであるか、ということについて考えるわけですね。空間とは何かという問いを、それを哲学的なアプローチでやるのではなく、数学的な厳密性でもって、語ろうとする。それによって空間の本質がわかってくる。しかし、今言ったのは次元の話だけであります。もしかして次元というものは、そのような一方向に伸びている、そういうような素朴な概念、それを出発点にして良いものであろうか、という問いがあります。そもそも次元のない空間というのを考えることができないかというような問題も、とても面白い問題です。

 かつて19世紀には物理学者たちが、光や色について様々な独創的な研究をしていました。今では色というと、テレビでRGB光の三原色って言われるRED、GREEN、BLUEそれをもって全ての色が作られるということを常識として、技術的な開発が進んでいます。最近の液晶テレビでは黄色が正しく表現できないということでもって、4番目の色素として黄色を画素に持つディスプレイも開発されておりますが、おそらくRGBというのは、我々の目がその三原色に対応する視細胞を持ってその三原色を識別できるということがあるに違いないわけで、昆虫なんかにはその紫外線や赤外線に反応する。紫外線に反応できるっていうものが多いっていうふうに聞きますけれども、人間の目には見えない紫外線を感じ取ることができる。そういう視力を持った昆虫が、あるいはそういう鳥が存在するという話を聞いたことがあります。もっともっと色彩について豊かな世界があるんだということがわかってくると、色彩はRGBの3次元ではなくて、RGBにYellowを入れた4次元で語られるべきだという話が出てくるかもしれませんし、いやいやRGB Yの他にPinkがあるべきであるとか、いろんな話が出てきます。そしてそのような可視光、目に見える光、ビジュアライズできる光の他に、可視光でない光、例えば私達が健康診断に使うX線のような、波長の短い光、そういうものも色彩空間の中に取り入れなければいけないという話もあります。ちなみに、X線というのは可視光ではないのですけど、可視光でないものの映像は、人間には理解できませんのでね。X線撮影では、それを人間が見ることのできるように加工して、放射線の専門医が診断をしてくれるわけでありますね。人間の目に見える形に変形しますから、そこには歪みが当然あるわけで、その歪んだ情報を正しく読み取れないと、同じX線の画像を見ても、正しく情報を読み取れないということはしばしばあります。放射線の専門医という資格を持っていても、いわゆる藪医者の先生にはその放射線の映像から、病理の存在を確信するっていうことができないということ。いわゆる誤診でありますが、人間である以上それは避けられないと私は思っておりますが、名医と言われる人たちになると、それをとんでもなく正確に読み取ることができる。機械が歪めた情報を、その歪みを補正して、真の姿を取り出す。これは放射線学の名医と言われる人たちの世界でありますけれども、一般の人が知らない世界ですね。ちなみに私が申し上げようと思ったのは、CTというもので、まさに放射線を使う、放射線被ばくの量が非常に大きいわけですが、その被害よりも利益の方が大きいということで、日本人の中にはCT映像取ってほしいと医者に懇願する病人までたくさんいるという話であります。CTというのは放射線映像でありますから、本来は見えない。しかしながら、それを見えるように、非常に上手に加工する。しかも色までつけて見えるようにしてくれる。ですから、放射線学の専門医じゃなくても、CT映像っていうのがわかった気になるわけですね。しかしわかった気になるということと、本当にわかるということの間には大きな差があるわけです。数学的な思考というのは、そのようにわかった気になることの背景には何があるかということについて、思考を巡らすということなんですが、残念ながら数学に弱いお医者さんたちあるいは一般の人々は、CT映像を取りさえすれば、そのCT検査というものを受ければ、病変が必ずわかる。そういうふうに信じていますね。MRIというもっと先端的な画像になりますと、もっともっと本当は訳がわからない。

 その訳がわからないものの世界の中にあって、何がわかり、何がわからないのかということを、正確に見極めようとする。これが数学的な精神であり、数学という学問だけに限られるわけではなく、皆さんにとって最も身近にある医療の世界にさえ、実は数学的な施策というのが得意な名医と言われる人々が存在するということです。残念ながら決してその数は、日本では多くはないという現実もつけ添えることを残念に思います。

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