長岡亮介のよもやま話120「マナーを守る人は合理的である」

 前回私は、いわゆる行儀作法の悪い人、現代ふうに言えばマナーが悪い人。そういう人たちが、合理的な活動をしていない、あるいはその行動様式が合理的でないという話をいたしました。本来は、人間は上品に生きて、みんなから素敵だと思われるということが目標になっているはずなのに、みんなからみっともない人だ、はしたない人だ、情けない人間だというふうに見られるような生き方をしていて、そしてその中で生きていることは、決して心地良いことではないはずなのに、それを心地よいことであるかのように錯覚して、行動しているのは馬鹿げているのではないかというお話をいたしました。要するに、合理性がないということです。今回は、私達がマナーを守るということが、なぜ合理的であると思うのかという問題に、もう少し切り込んでみたいと思っています。先ほどちらっと言いましたけれども、結局のところ、私達は、他人の目を気にしていて、他人から少しでも良く思われたい。そのために、品性高い、あるいは品性正しい生き方をしているという姿を見せたい。そのためには自分が少々無理をするということをしても、それは損ではないと考えている。この常識をもう少し深い角度から考えてみたいということです。

 私達は他人の目を気にするというふうに私は表現しました。おそらく、いわゆるマナーの悪い人というのは、他人の目というのが気にならない。あるいは他人の存在に気がついてないということだと思います。日本語の他人という言葉は冷たい言葉で、私はあまり好きでありません。私は隣人という言葉の方が好きです。私達を取り囲んでいる人々。その私達を取り囲んでいる人々というのは、交通機関の発達していない昔であるならば、要するに、隣近所の人々です。隣近所の人々によく思われてないということは、昔だったら、ほとんど生きていくことができない。そういう世界だと思います。今でも、首都圏を離れて、いわゆる人里離れた人口密度の低いところに行くと、人と人との間の物理的な距離は遠ざかっている。つまり隣の家に行くのに、車で20分間以上飛ばさなければならないというようなところ。東京から見れば、田舎ということになりますが、その田舎の人々は物理的な距離としての隣は、遠くなんですけど、精神的には文化的にはその物理的に遠い隣の人が、実は極めて重要な隣人になっているわけですね。逆に言えば、都会の人は、隣と、下手をすれば、壁越しに音が聞こえる。そういうくらい近いところに生きていながら、実は隣の存在が気にならない。そういう生き方を平気でしているわけです。しかし、私達人間にとって、隣人、隣近所、それがなぜ大切であるかということは、私達の文化が育ってきた、今は田舎と言われている地方のことを考えれば、考えるヒントが見つかると思うんです。

 田舎において人間関係が濃密であるということ、これは都会の人から見れば、嫌なこったというふうに切り捨ててしまうことが多いと思いますが、実は私達は、一人で生きてるんではない。隣人たちとともに生きるということによって、私達の生活の基盤が、そこに成り立っているんだということを、都会の人たちは、文明化されることによって、忘れさってしまっているということだと思うんです。私達が隣近所を大切にする。隣近所の目を気にするというのは、古い時代の、人によっては封建的なしきたりであるなどと言って張り切って非難するかもしれませんが、それは封建主義という言葉の元々の意味を誤解してるのであって、伝統的な文化の中で隣近所を大切にしてきたというのは、典型的には農耕を考えれば明らかだと思うんです。私達は、米、つまり稲作、水稲栽培によって、それを中心として、生きてきたと言っていいと思うんですね。言うまでもなく、秋の実りであるお米を食べることができたのは、農民の中でも一部であったかもしれません。貧しい人にとって、お米は憧れの的でしかなかったのでしょう。しかし、とにかく、私達の生産のいわば目標というか、憧れの的としてお米があったというのは、つい最近までそうでありました。日本人がお米が大好きである。そういう国民であるということは、今はちょっと薄れているという指摘もありますけれども、私は非常に深いところに根付いているもので、決して簡単に変わるものではないと思っています。そのお米を作るというようなことを一つとってみると、わかるのですが、1人でお米を作るっていうことができるわけではない。もちろん、水田を1人で維持管理するということができないという意味ではありません。そうではなくて、お米を作るには、いつ種もみを蒔くか。いつその種もみから苗を作るか。苗というのは、水田に植えるための最小単位ですね。そしてその苗を水田にいつ植えるか。どのような水の状態が幼い稲の苗にとって最適であるのか。その時期を決めるのは容易なことでありません。そして、昔であれば、そこから始まり、雑草を取り、稲が育ってきたら、今度は水を抜く。そして田んぼを乾かして、ある時稲を刈る。これらはみんな1人でできることだというふうに思いますが、実は、種もみを蒔くにも、苗を作るにも、そして苗を植えるにも、水を抜くにも、刈り取りをするにも、農業の基本は、タイミングでありまして、そのタイミングをどのように決めるか。大変に難しい問題なんですね。ある意味では現代では、農作業というのはみんな機械化されているので、農民の技術、腕っていうのは、そのタイミングを見計らうことにあるとさえ言えるのではないかと思います。これは極論かもしれませんけれど。その時期を見極めるのに、自分1人で見ることができるのか難しいんですね。天文学の発達というのは、とりわけ農耕栽培をする人々にとって最も重要なもので、そして特に水稲の場合には水を引く、水を抜くというのは重要でありますから、それをいつやるかというのは大変なことです。そして、私達は川のそばに水田を作ってるわけでは必ずしもありませんから、水というものを川から引いてくるという、いわば灌漑工事をやらなければいけない。そういう大土木工事を人間の個人の力でできるのかというと、よほど地理に恵まれた農地を持ってる人以外は、みんなで共同してやらなければならない。言い換えれば、隣人の農民が不可欠であるわけです。村で天気を読み、気候を読み、村で時期を決定し、そして村で大灌漑工事、土木工事を共同で行うというようなこと。これは隣人の助けなくしてはありえない、大変に困難な事業だと思います。

 そういう中にあって、隣人と助け合って生きていくということが合理性があったんだと思うんですね。人々のことを考えるということが、自分のことを考えるということに直結していたと言ってもいいでしょう。つまり、「私達がセルフィッシュである、利己的であるとということがなぜまずいか」と、私達の先祖が考えたかと言うと、「利己的な気持ちだけでは、自分自身の生存さえ保障できない」という厳しい現実を突きつけられて、利己的であるよりも、一般に利他的というふうに言うと言い過ぎなのですが、「村として、隣人と団結するということが重要なことである」ということが、私達の先祖は非常に重要な倫理として学んだのだと私は思います。農業、農耕を通じて私達は、隣人のありがたさ、ありがたさというのは、それがあり得ないくらいのものであるということでありますが、それを肌身にしみて感じ、それを大切にするためには、自分の利己的な心を抑えるということさえ重要であるということを学んだんだと思います。

 もちろん、狩猟民族であった時代でも、人間のような弱い存在が、狩猟において大きな強い動物に勝てるというのは、集団で狩りをするという団結心の結果でしかありませんね。ちなみに百獣の王ライオンと言いますが、ライオンは必ずしも狩りが得意でなくて、特に雄のライオンは駄目らしいですね。狩りをするのは雌の担当であるという話を聞くと、もしかすると、これは現代にまで繋がるレッスンなのかなと思うこともありますが、実はライオンは百獣の王というふうに言われていますが、ライオンが襲われることがしばしばあるそうで、それはどういうものによってであるかっていうと、狼とか、あるいは野犬、そしてしばしばハイエナです。ハイエナというのは、ライオンが倒した動物の死肉を荒らす。そういうおこぼれにあずかる生活をしているということで、みっともない動物だというふうに私達はつい見てしまうのですが。実はハイエナというのは、賢い動物ということができるわけですね。経済合理性っていう点で考えると、ライオンは必死に追いかけて、動物を倒して、その肉を全部食べることさえできないという意味では、あまり合理的な生き方をしていない。それに対して、ハイエナは、他が倒し食べている食物を途中でかっさらう。なぜかっさらうことができるのでしょうか。実はハイエナはライオン以上に集団生活が得意で、団結してライオンに襲い掛かるわけですね。そういうふうにハイエナにたかられたライオンが、渋々自分の獲物を譲らざるを得ないというところに追い詰められているわけです。ハイエナの団結力が、ライオンの力、ライオンも群れを作ってるんですけど、ハイエナほど大きな群れでなく、ハイエナほど統率が取れてないんだそうで、優っている。ハイエナのそのような統率を取れた仲間としての行動によって、ハイエナはときにライオンの獲物を取るだけではなく、ライオンそのものをやっつける。ライオンを狩る、ハントするということがあるのだそうで、みんなで団結してやると何倍もの力になるということは、野生の動物の中でも、それをよく知っている者はたくさんいるわけです。狼とか、犬というのはその典型でありますし、類人猿と言われるもの、猿の中にもそういう集団生活が得意なものはいて、その集団の力によって生きています。

 私達人間も、かなりの長い歴史の時間を通して、集団がいかに大切であるかということを学んできたんだと思います。だからこそ、隣の人を気にするようになったんだと思うんです。隣のことを気にするなんて馬鹿げたことだというふうに、都会の人は言い切ってしまう傾向がありますが、実はそれは昔からの長い長い伝統を忘れている傲慢な発言であって、私達にとって何よりも大切なものは、隣人であったということですね。そして、その隣人を大切にする心、これが村の世界、つまり自分の非常に小さな周辺の世界に限られてくると、村根性というようなものになる。この村根性が悪いのは、村としての合理性は追求するけれども、反対に村を出ると、それはもはや村の中のメンバーとしてではなく、村に敵対するものとして扱われるということですね。これが人間、私達が近代社会にあって、そういう村社会を克服していかなければいけないということが、社会の理念になるわけでありますけれども、村社会というのは、つい最近まで強く、私達の中に生き、そして私達の生活を支えてきたんだということを、たまには思い出すのも悪くないかな、と私は思うわけです。私はつい今、「悪くないかな」と思いますと言いましたが、何で最後に「な」をつけなければいけないのか。これは今のはやり言葉に、私が毒されているからでありまして、本来不必要な言葉を付け加えることによって、自分の発言を現代の社会の中で孤立しないように、カモフラージュしている。そういうふうに私は考えます。「人間は類的な存在である」という言葉を残した哲学者がいますけれども、実は人間に限らず、仲間を大切にするというのは、動物の中によくあることでありまして、最近では植物の世界にさえ、そういうものがあるということが指摘されています。私達は、仲間なしには生きていけないという生存のための厳しい掟を通じて、隣人の大切さということを学び、その教えを通じて、利己的に生きるということが、実は最もその重要な倫理に反しているということを学んできたんだと思います。誠に残念なことに、その歴史を知らない人間、特に都会の人間がそのことを完全に忘れ去って、非常にみっともない立ち振る舞いをしているということです。しかしながら、この村社会というものの持つ道徳にも、批判的な眼差しを向けなければいけないこともあるわけでありまして、それについてはまた次の機会にお話したいと思います。

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