長岡亮介のよもやま話119「マナーの悪い人は合理的でない」

 東京というところに暮らしていると、やはり何か人々がせわしなく生きている。より正確に言うと、人々が経済的には豊かになりながら、実質的に非常に貧しい心の状態の中で生きていると、感ずることが少なくありません。つい最近電車に乗ったときに、そんなに混んでる電車ではなかったんですけれど、行列を作ってすいてる電車を待ってる人たちがいるわけですね。日本人は行列を作るのは、国際的に見て、マナーの良い方だと私は思っておりますが、そういう中にあって強引に、入口をまだ降りている人もいるのに、入り込んで空いてる席にそそくさと座った若い女性の姿を見て、とても興ざめしました。というのは、一応列を作って順番を待つという常識的なマナーがあります。それは、時には無視しなければいけない緊急事態ということもありますので、そのマナーというのは所詮道路交通法のようなもので、人間が守らないと、それによって刑事罰を受けるというようなものでは全くないと思いますが、それでも特別な事情がなかったら、そのマナーを守るというのが、普通の常識というか、人間としてのたしなみですよね。

 しかし、特別な事情もなく、駆け込んで、自分の席を確保した女性は、それによって得をしたかのようにほくそ笑んで、そして遅れて入り、立ったままにいる私の方をチラリと侮蔑的な目で見て、やおら何を始めたかというと、驚くべきことに携帯電話を取り出して、それで何かをやっているんですね。何か特別に重要なことをやってるとも思えない。チャットアプリであるとか、あるいはゲームとか、そんなものをやっていたに違いないと思いますが、そんなことをやるために、あんなにみっともない思いをし、そして私のような年寄りに軽蔑される。そういう目に遭う若い女性は、私から見れば、本当は輝かしい美しい女性であるのに、その途端に本当に醜い醜いおばあさんのような、昔話になりますが、そのような人に変身してしまう。私はそれは合理性がないと思うんですね。つまり、ちょっと座って、そこでゲームを進める、あるいはEメールをチェックする、あるいはメッセージを送る、スタンプを送る。実にくだらないことのために、人間としても最も重要な、他の人から尊敬される、あるいは愛らしいと思われる、あるいは愛される、そういう特権を自ら放棄している。ということは、どう考えても馬鹿馬鹿しいと、私は思うのですが、いかがでしょうか。

 私は若い頃は、今はあまり流行らないそうですが、筋肉を鍛えるということが一つの趣味でありましたので、電車に乗ったときには、吊革に捉まれる自由があるときには、両手でつり革に捉まって懸垂運動をしたりして、電車の時間を充実して使うということをよくやっておりました。今は、両手で懸垂して自分の体を持ち上げるということが、もうできないようになりましたから、さすがにそれはしませんが、それでも今でもつま先立ちができるという程度に、懸垂運動をしたりしています。どうせ電車に乗ってる時間は、大した時間じゃないので、その時間に少しでも健康的なことができればという、私の年寄りらしいはしたない思いでありますが、他の人にそれが見つからないようにこっそりとやっているということですね。あまり人に自慢できないことはこっそりとやるというのが、人間としてのずるさ、あるいは賢さであり、このずるさ・賢さの問題については、また日を改めてお話ししたいと思います。

 私が今日最初に取り上げたいと思ったのは、そのような明らかにみっともないことを平気でやるという若い女性、美しい女性だと私は思っていた人が、到底その美しさや若さに比べて、みっともないという言葉、あるいははしたないという言葉、そういう言葉を投げかけざるを得ないようなそういう行動を、自分からあえてナチスに強制されたわけでも何でもない、それを自ら進んでやるという姿に、彼女にとって、私を含めて周囲の人というのは全て人間ではない、ただの本当の自分の周りにいる烏合の衆のような存在に違いない。そして自分が一人で生きていて、他の人のことは、家畜のように思っているのではないか。その言い方は、もし厳し過ぎるならば、彼女にとって、自分自身以外の人が人間として目に入らない。そのくらい無教養になっている。そういう若い人を育ててしまった親も馬鹿だと思いますし、そういう子供を育てた保育園・小学校・中学校・高等学校、ひょっとすると、もしかすると、大学とか専門学校に行っているのかもしれません。しかし、彼女にとって教育とか教養というのは、全く身についていない。本当に、野生の中に生きる。野生として生きる力さえ持っていない都会の中のネズミのような存在。そのように思えて気の毒に感じました。皆さんはいかがでしょうか。中島みゆきという私が尊敬する歌手の詩の中に、一節に、「駅の階段で、年老いた人を突き飛ばした女性、それが薄笑いをしていた。それを私は見逃さなかったけれども、それに注意はしなかった」というセリフがありましたけれど、それはそれの極端な場合であると思いますが、そのような極端な場合、人を突き飛ばして転ばす。そういう被害を及ぼさないとしても、自分が得することだったならば何でも優先されて当たり前だというのは、あまりにも無教養が過ぎるというものではないでしょうか。

 それはもしかして、ビジネスマンが会社の中でのミーティングに遅れそうで、しかもそのミーティングで使うべき資料が用意できていない。だから、慌ててプレゼンテーション資料を整備しなければいけない。そういう状況に置かれているときには、それはそれは必死でしょうから、みっともなくてもやらなければならないということはあるとは思います。でも、そのときにはその自分のみっともなさと引き換えに、社内であんまり恥をかかないという経済的な利益、経済的な利益ということについてはまた別にお話したいと思いますが、ある種の得をとっているわけですね。損をしてでも得を取っている。でも、損をして得も獲得できない。損したままであるというのは、いかにも愚かであると私は思いまして、この話を皆さんにしてみたいと思いました。「みっともなかったならば、それのみっともなさに引き合う得がなかったら駄目だよ。みっともないままで終わる。そういう人生を日々生きていいのか。」そういうふうに、特に美しい若い女性には言いたいなと思います。年取ったおばさんたちが図々しくなるのは、それはもう私にとっては眼中にないことですから、どうでもいいと私は思っているのです。あっ、そんなことを言うと、これはセクハラである。今時それは許されない、というふうに張り切って私を説教する人がいると思いますが、眼中に入らないものは眼中に入らないんですから、お許しいただきたいと願っております。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    教養がない老いた女性は、私にとっても不可視な存在です。
    しかし、聡明な女性は、老いれば老いるほど美しい、と感じました。

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