長岡亮介のよもやま話116「クラシック音楽(Ⅱ)の時代」(NO67「クラシック音楽」)

 クラシック、あるいはclassical music英語ではそう呼びますが、クラシック音楽というと、えらく古い昔のものだという印象を持っている日本人が多いと思いますが、実はその歴史がそんなに古いものではない。いわゆる鍵盤楽器と言われているものの代表であるピアノ、pianoというのは小さいという意味なんですが、なんでピアノというのか、今ではわかりませんね。グランドピアノという大きいピアノという矛盾した表現も普及してるくらいですから、ピアノという言葉の元々の意味を知ってる人は少ないでしょう。なぜピアノが小さいのかというと、Oruganに比べて遥かに小さいからでありますね。そのオルガンが普及してきたのも、実は近代に入ってからのことでありまして、それ以前の楽器というと、基本的には笛とか、ごく簡単な鍵盤楽器とかそういうものでありました。今日お話したいと思ってるのは、そのことを受けて、実は昨日私はオペラざんまいを味わっていたのですけれど、私はモーツァルトのオペラがおかしくて好きなんですけれども、もう少し古典的なオペラも悪くないと思いまして。久しぶりでありますけど、ヴェルデイのアイーダとか、プッチーニのトゥーランドットとか、あるいはベルニーニのノルマとかを、堪能いたしました。一日にそのような巨匠の作品を連続して堪能するなんて、ずいぶん贅沢というか、考えようによっては不埒というふうに言われても仕方のないようなことでありますけれど、ちょっとした仕事上のスケジュールの事情から、そういう時間を過ごしてしまったというわけです。

 ところで、これらの作品は、いずれも、非常に古い時代をあえて扱ったもの。例えばアイーダというのは、古代エジプトの世界、あるいは古代ローマ帝国と言うべきかもしれませんね。エジプトとエチオピアの戦争を主題としている。プッチーニのトゥーランドットも、中国の昔を話題にしてる。ベルニーニのノルマも同様でありまして、非常に古い時代の自分たちと違う世界を描いている。というのは、彼らの活躍した19世紀という時代は、産業革命が進行し、産業革命自身は18世紀に発明された内燃機関、それによって起こった巨大な自動化産業、特に紡績とか紡織の世界で起こった大革命、それがもたらすところの深刻な社会問題が表面化していた時代であります。社会運動が活発になり、その社会運動が官憲によって手ひどい弾圧を受けていたという時代でもあります。そういう時代にあって、特権的な身分を味わっている人々が、時代錯誤的にも、そのような古き良き時代のオペラに興じていたということは、正確な時代認識を持つことがいかに難しいかということを、逆に表してくれているような気も致します。つまり、自分のすぐそばで、弱い人、それが弾圧され、そしてその人たちの労働の成果によって、自分たちの一見豊かな生活が保障されている。そういう不正が世の中にまかり通っているという現実に、気づかずに、自分たちの楽しみにふけっていたということです。

 もちろん、ヴェルディにしろ、プッチーニにしろ、あるいはベルニーニにしろ、彼らの作品が素晴らしくないというのではありません。芸術と言われるものが、ある意味でそのような特権階級の存在によって支えられていたというのも、現実の話として受け入れなければいけない。とは思うものの、やはりその時代の実際の現実に常に鋭敏であるべき「知識人」と言われる人々が、残念ながら世論の多数派を形成していたわけではないということ。それは認めなければならないのかな、と思います。私は今、あえて「認めなければならないのかな、と思います」という曖昧な表現を使ってみたのですが、こういう現代ふうの表現、「使ってみたのですが」とかの表現は、ある意味で現代の抱える諸問題に対して、自分自身が意見を持っていないわけではないということを証明するための責任を回避してる。あるいは責任を軽くしている。そういう表現だと思うんです。やはり、もっと明確に、そうでなければならないと言い切る勇気。それが求められているはずであるのに、まるで天気予報を天気情報と言い換えて、予報の不確かさに対する責任を回避する天気予報士のような人々のように、現代の社会状況に対して、発言を意図的に和らげるというようなことはあってはならないな、と思います。もっと正確に「あってはならない」というべきであるということです。それくらい私達は、時代に対して明確な意識を持つということが、実際はなかなか難しいことで、時代の風潮に巻き込まれて生きていくというのが、庶民の悲しいサガ、あるいは仏教の言葉で言えば業(ごう)のようなものであると思います。

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