私が時々日本の人々の会話の中に聞くときに感じる違和感についてお話したいと思います。いろんな違和感があるんですけれども、一番強く感ずるのは、何を言ってるのかわからない表現をよく使うということです。とても曖昧に語る。そして、日本人の多くの人はそのように曖昧に語ることを、情緒的に理解することで、それは理知的に理解する、あるいは論理的に理解する、合理的に理解するということの対極にあることのように、思ってるような気がするんです。私は情緒的な表現というのも極めて理知的なもので、私達が豊かな感情、あるいは印象、感動、そういうものについて語るときに、私達はともすれば曖昧な言葉に逃げることが多いように思うのですが、本当はそういう印象というものも、やはり深く考えて、できるだけ明確な言葉にすべきだと、私はそう思います。
私がそのことを痛切に感じたのは、高校生の頃、いろいろな偉い先生の文章を読んで、「文章を書いて考える、そしてそれを人に伝える」というのはこういうことなんだということを、感じたときでありました。当時は小林秀雄先生が流行っていまして、そういう大先生が書いたエッセイ「考えるヒント」という本がありましたけど、考えるためのヒントになってるのかと思うと、全然いわゆるヒント集ではなくて、ますます難しくなる。考えるとはどういうことかっていうことについて教えてくれる本でありました。そのときに私は様々な、小林秀雄先生っていうとなんか親しげでちょっと失礼かもしれませんので、あえて小林秀雄というふうに敬称を避けて語ろうかと思いますが、小林秀雄を読んで、本当に思ったのは、「評論というのは、創造的な作品である」ということでした。それまでは、評論というのは誰かが小説を、あるいは絵画を、彫刻を、そういうクリエイティブな仕事をした者に対して、あれこれと上から目線で、今流に言えばですね、論評する。それを批評だっていうふうに私は思っていて、「批評家っていうのはとんでもない連中だ。自分たちは何もできないくせに」と、実に通俗的なレベルで考えていたわけですが、私は小林秀雄に接して、「評論というのは想像以上にクリエイティブなことである。クリエイション以上にクリエイティブである」ということを、感じました。それは、要するに作品は、それぞれの作品が持つものそのものが何であるかということを、言葉で語ってはいないわけですね。しかし、その言葉で語っていない事柄を、あえて明示的な言葉にする。それが評論なんだと、子供の頃の私は、そのように単純に考えて、自分なりに納得しました。
当時は、私の若い時代は、すごく恵まれていてフランス文学者の渡辺一夫とか立派な先生の文章がいっぱいあって、そういう文章を書き写すようにして勉強したことが懐かしい思い出であります。私達がともすれば、曖昧に語って終わらせてしまう、あるいはときには先日お話したように、何か自分が感じた「いいな」と思うものを断定的に言い張って、それで終わりにしてしまう。枕草子の話で、その話をしたんですが、それはそれとして小気味良いっていうところはありますけれども、やはり、一旦それを自分の中に沈殿させ、それが他の人に対してどういう意味を持つのかっていうことをしっかりと見極めた上で、いわば体系的な知として、人に伝えるという作業。それがとても大切だと思い、情緒とか情緒的と言われる世界にも、理知的な分析とか、論理とかが十分に入りうるということを、高校生の頃私は思って、その発見に自分自身で感動してしまった。それに比べると数学における感動というのは、底が浅いもんであるなと逆に思ったりもしました。一方で数学でちょっと生意気心で、大学以上の数学の話あるいは数理哲学の話を読んだりすると、数学もなかなか奥行きが深いというふうに、子供の頃思ったものであります。合理的な世界にも、深いものがある。それと同じように、あるいはそれ以上に情緒的な世界にも深いものがあるということ。そのことを発見したことが、私の高校時代の思い出の一つです。
そんなことを考えると、何か今の人たちが、自分は情緒的で合理的な思考ができないことを、「自分は文系である。自分はアナログである」と規定するというのは、非常に不健全で、しかも内容がないと感ずるんですね。そして、文系と名乗る人たちのことを、「あの人たちは文系だから。私達は理系だ」と理系を称する人たちは、今度は逆に、情緒の世界というものについて深く考えようとしないことについて、とても悲しく思います。要するに、「言語の世界が貧困化している」ことを、私は感ずるんですね。私達は、本当に教育水準が上がり、ほとんど全員が高校に行く、あるいは高等教育を受けるようになった。そのことでみんなが高度な教養をつけたかというと、みんなが同じ程度の無教養に染まってしまった。そんなことを考えます。「言葉の豊かさ、言葉の貧しさ、そういうことを私達が日々に考える」ということが、大切なんではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。
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