長岡亮介のよもやま話110「高学歴低学力」

 いわゆる戦前の事、私はもちろん直には知らないのですが、いろいろと話を聞いたり本を読んだりすると、小学校以上の中等教育あるいは高等教育の機会に恵まれていた人がほんの一握りで、多くの人が小学校だけで勉強を終えていたという話です。私の親戚の中に、やはり貧しい家の出身で、小学校しか出ていないのですけれども、立派な文章を残し、文学の世界において重要な足跡を残してくれた方がいます。その人の小学校の頃の文章を、たまたま母の遺品を整理していた中に見つけたのですが、本当に腰を抜かすほどびっくりしました。それは、まず字がとても上手であるということ。筆のようなものでサラサラと書いた字ですが、全く私など足元にも及ばないという立派な字で、しかもその文章たるや、大人になった私が見ても、こんな文章を書ける人は最近の日本では滅多にいないのではないか、と思うような立派な文章でした。その私の尊敬する叔父は若くして亡くなってしまいましたけれど、そういう具体的な存在を通して、戦前の教育が小学校レベルにおいてさえ、そういう青年を育てるという余地を残す、余裕のある教育であったということを感じます。

 反対に言うと、今の小学校は、ある意味で余裕がない。先生が何から何まで教える。よく言えば、手とり足取りで親切なんですけれど。そのように手取り足取りすると、結局のところ、子どもたちがその先生の能力のところまでしか行けない。ひどい先生になると、子どもたちに向かって、「このようにしなさい。このようにしないと、君達は人生で損するから。君たちは人生で敗者になってしまうから。人生の成功者、勝者になりたかったならば、このようにしなさい」ということまで、「指導」するという話を聞いたことがあります。はたから見ていても、今の学校の先生たちは、よく言えば親切ですね。勉強のできない子どもがいると、その子に詳しく優しく繰り返し勉強を教えてくれることが、当たり前のように行われているようです。保護者の中にもそういう教員のサービスを当たり前だと思っている人が多いようですが、私から見ると、小学校あるいは中学校・高校でもそうですが、先生が子どもたちに対してそのように拘りすぎる、面倒見が良すぎるというのは、いわゆる過干渉、干渉が過ぎる。昔の言葉で言うと、過保護でありまして、それは子どもに対する愛情ゆえという動機が立派であったとしても、結果として、とんでもないことをやっているということです。大体のところ、不思議なことにそのように面倒見の良い先生ほど、本当に大切なことは教えていない。

 子どもたちにとって最も大切なことというのは何か。それは楽しい学校時代を過ごすということですね。小学校で言えば、勉強することが楽しいと思うことです。勉強をすることを通じて、自分たちの世界が広がったという実感を持たせること。そしてますます勉強したいと思わせることなのに、やれ宿題、やれ授業の補習とそういう形で子どもたちを縛って、面倒を見ているつもりで、子どもたちから勉強への欲望を奪っている。わかりやすい例で言えば、あまり食欲のない子ども、あまり体を動かしてないからお腹もすかない、そういう子どもに対して、「今、食べないと栄養がつかないよ。大きくなれないよ。早く食べなさい。しっかり食べなさい。残さず食べなさい」というふうに指導する。そういう食事の指導っていうのは、それ自身が根本的に間違っているとは言いませんが、やはり一番大切なことは、子どもたちが自ら進んで食べたくなる状況を作り出すということでしょう。子どもたちが、空腹になるということ。そして、英語でも「空腹が一番のソースである。Hungry is best source」という言葉がありますが、空腹感というのは、決して不幸なことではなく、その後に満腹の幸せが待っているならば、空腹も楽しいものではないかと思います。知識に対する空腹感、そういうものを持たせるということこそが、学校の先生たちに求められていることなのに、その空腹感を持つ前に、さあ次はこれを食べろ、さあ次はこれを食べろ。私の調理は日本一だ。小学校の給食のようなところで、そんなことを言われて育つ子どもがいたらかわいそうですよね。本当に美味しい料理、熱々の料理、そういうものを子どもたちに、味あわせてやりたい。そういうものに出くわせさせてやりたい。そういう経験こそが大切なのに、面倒見の良いということが良い先生の代名詞になる。

 しかも、さらに保護者の出来が悪いと、良い学校に進学実績のある先生が優秀な先生だと、こういうことがまことしやかにささやかれる。大体そういう保護者といわれる人々は、良い学校に行ってない人達なんですね。自分たちがもっと勉強していたらより良い学校に行けたに違いない、と人生を後悔しているような人々。そしてその人生の自分の失敗を自分の子どもの成功で取り返せると、こういうふうに誤解している人々ではないか、と私はあえて申し上げたいと思います。学校の善し悪しというのは、その子によって決まるわけでありまして、いわゆる受験偏差値が高い学校が良い学校、というわけではありません。東京大学というのはとても良い学校ですけれども、東京大学の良さを本当の意味で生かし切るのは、せいぜい10%の入学生でしょう。残りの9割の学生にとっては、挫折感に満ちた4年間を送ることになる。そういう大学であると思います。そういう意味で、東京大学でさえ良い大学とは言い切れないとすれば、いわんやおやというところでありまして、いわゆる偏差値なんかで自分が一番入りたい大学というようなことを気楽に語るのは、本当に馬鹿げていると思います。

 昔の人たちは、小学校を出ただけで、今の東大の卒業生が、文学部の卒業生や文科一類、法学部の卒業生でさえ書けないような、立派な文章を書く大人に成長していた。そういうことを聞けば、今の日本の不幸は明らかではないかと思います。ある意味で、今の社会を一言で言うならば、高学歴社会、誰しもが高学歴、4年制大学とか場合によっては大学院まで卒業している。それなのに、肝心の学力、学力というのは単なる知識とか基本技能のことではなく、学び続ける力のこと。そのことを学力というんだと思いますね。ラーニングキャパシティ、学んでいくことの容量の大きさ。それが学力だと思いますが、そういう意味で言うと、高学歴の人であるのに、実は極めて学力が低い。「高学歴低学力」、そういう大人たちばっかりになってしまった今の日本を、若い皆さんの力で少しでも良い方向に持ってくように頑張ってほしいと思いますし、年寄りの私達の世代は、若い人たちがそのような方向に向かって努力することを、真に応援するようにしたいと思います。

 どっかの政府のように、政府に対して自己の個人情報を登録した人に対しては、2万円あげますよというような、利益で誘導するというのではなく、本当にその人が生き生きとする、そういう毎日を送ることができるように応援する仕組みを、大人たちの知恵でもって用意していく。このことが、大人たちには求められている。特に、いわゆる進学競争で勝った人だけではなく、その進学競争で不本意に負けたと思っている人こそ、実はそこで負けてしまったからそれを取り返すために子どもにかけるというのでは、負け続けることにしかならない。本当に勝つためには、自分の子どもたちがそういう、言ってみれば誇大広告というか、根拠の意味のない一方的な情報、テレビのコマーシャルのようなものから少しでも自由になるように、配慮してやることではないかと思います。そして、単に心を配るというだけではなく、そのために必要なことを少しでも実行していくということが、求められている。私はそう考えます。皆さんはいかがでしょうか。

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