世の中の多くの人は、世の中で最も優れた頭脳を持っている人たちのことを天才と呼び、褒めたたえます。私もそのような天才を数多く知っていて、自分がその天才からかけ離れていることを悲しくもあり、おかしくも思っておりますが、神様はそのような天才とかけ離れた私のような存在を、許容してくれているということに感謝しながら、生きているわけでありますが、その天才たちがいかにしてその天才的な頭脳を発揮し得たのか。私達がその謎に迫ろうとすると、それを阻む絶対的な壁のようなものがあるんですね。最近の人たちの中では、そのような驚くべき天才っていう人は少なくなってはきていますが、それでもたくさん世の中にはいます。そして、そのような人たちが、そのような天才的なインスピレーションにどうして導かれたのか。私達凡人から見ると、そのような天才的な人たちは、ある種の天才的な霊感、インスピレーションといいますか、日本語の霊感という言葉の方がいいと思うんですが。そういうものをまるで心の中に吹き込まれるかのようにして、新しい真理の新しい側面を発見している。全く敵わないなとつくづく思いますが、そのような全く凡人から遠ざかった天才が行っていることも、実はその多くのことが先人達の叡智の上に成り立っているということを、一番よく知っているのはおそらく天才たちなんでしょう。
有名なアイザック・ニュートンの言葉を引きますと、彼はその時代の天才と、もう本当にありとあらゆるところで褒めたたえられたんだと思いますが、そのアイザック・ニュートンが、自分の業績を例えて、「私は、大きな巨人の肩の上に立って遠くを見渡しているような、小人のような存在である」と言ったそうです。このニュートンの例えは、誠に彼の天才ぶりを示していると思うんです。なぜならば、彼は、自分が多くの人々が成してきた業績を上手に活用して、そして今まで他の人が見たことのないような世界へと目をやった。つまり、彼がすごい業績を上げることができたのは、まさに「過去に偉大な人々の業績があったからに他ならない」ということを、ニュートン自身が一番知っていたわけです。その時代の人々の中には、ニュートンがいかに偉大であるかということを詩に歌ったり、あるいは旧約聖書の創世記に真似して、「神は仰せられたLet Newton be」と。これは英語にすると「let light be」、「光ぞあれ」とか、「灯りよあれ」というふうに翻訳することが普通でありますが、「let light be」光ぞあれと言ったのと同じような意味で、「let Newton be」ニュートンぞあれよ、ニュートンぞ出でよ、ニュートンぞ存在せよ、そういうふうに万物の創造者たる神がおっしゃった。それくらい奇跡的な宇宙の創造の秘密を説き起こすニュートンの誕生を、同時代の人々はそのように褒め称えたんですが、しかしニュートンは、「自分は大男の背中に乗って遠くを見つめる、そういう小人のようなものである」と、言ったといいます。ニュートンが謙虚であったということを、私が言いたいのではありません。そうではなくて、ニュートンが自分のやった大きな業績、その業績を支える本当に膨大な数の先人たちの苦闘の跡をきちっと正しく評価していた、ということを申し上げたいわけです。
しかるに、私達人間が言語を獲得するとき、赤ちゃんとして生まれてふにゃふにゃっとしかできなかった赤ちゃんが、あやされたりしているうちに、いつの間にかはいはいをして、うまうまとかっていうような言葉を言うようになり、やがて父ちゃんとか母ちゃんとか、パパとかママとか言うようになる。誠に不思議なことに、犬とか猫とか、動物学的な定義を与えたわけではないのに、犬を見るとワンワンと言い、猫を見るとニヤニヤと言う。どうやってその区別がなされているのか、誠に不思議という他ないのですが、動物学に関する研修なんか何にも持たない赤ちゃん、幼児でさえ、そのようなことができるようになる。そして、やがてはワンワンとニヤニヤだけではなくて、犬ころ、猫たち、そういうふうに言うことができるようになり、犬2匹、猫3匹とそういうふうに言うことができるようになる。犬が2匹、犬が3匹、合わせて犬が5匹いうようなことが言えるようになる。愚かな大人は、犬が2匹、猫が3匹、合わせて5匹と、こういうことを言ったりしますが、これは馬鹿げていて、犬と猫と分類しながら、またそれを合わせて5匹って数えるのは、誠におかしいなことであります。これの類の過ちというのは大げさに言えば、砂糖2gと食塩水3%で、5
そして、数の数え方を正しく理解し、さらには最も不規則な日常言語というのをマスターする。私達日本人は、誠に不思議なことに、日本語を巧みに操ることができます。日本語は不思議な言語で、「日本語は」と僕は言いましたが、「日本語が」と言っても、大体の場合同じ意味です。「私は、数学は好きです」と言うのと、「私が、数学が好きです」と外国人が言ったならば、ほとんどの日本人は正しい日本語だというでしょう。でも、片一方はおかしくて、片一方が正しいと、多くの日本人は判定します。それは、「は」と「が」という日本語では、格助詞っていう文法的には言うのかもしれませんが、その微妙な使い分けを本当に文法について習ったわけでもないのに、論理的に理解しているわけでもないのに、正しく使い分けることができるようになる。話し言葉はまだ楽ですね。書き言葉になると大変難しい。正しい日本語の文章が書けるというのは、小学生でもほんの一握りでありましょう。日本語の文章を書くのは難しいわけです。しかし、そんな難しい日本語の文章を、思春期になれば自分の恋しいと思っている人に手紙を書きたくて、一生懸命日本語で文章を書く。正しい恋文が書けるようになる。素晴らしいことだと思いませんか。
それを人々は「成長」っていうふうに呼びますが、そのような成長がどうして可能なのかということを考えると、これは論理的に考えても決着がつかない問題ではないかと私は思うんです。私達は、真に神秘的としか言いようがない「成長」というプロセスを、子ども時代に送ることができるわけです。哺乳類の霊長類においては、あるいは哺乳類の霊長類でなくても、多少下等な哺乳類であっても、そういう学習というのがあるんだということを最近の動物学の治験では、明らかにされていますけれども、いずれにしても、とにかく生まれてから何も知らないはずなのに、ある場合には本能というものがあり、ある場合には本能で学ばないことであっても、本能の教えないことであっても、それを自らの学びを通じて、体得していくという不思議なこと。これが全ての赤ちゃんにおいて起こっているということは、何と素晴らしいことだと思いませんか。
私は、実は人間の本性は何であるかということについて、それが善であるか、悪であるか。それを断定的に語ることはできない。人間には、善に向かう傾向もあれば、悪へと向かってしまう傾向もあるということを認めざるを得ない。そういう少しぺスミスティックな気持ちでいることも多いのですが、子どもが学ぶ姿を見ていると、人間が学びに向かうという姿には、大変に高尚なものがあると思うんですね。人間を規定するのにホモサピエンスであるとか、あるいはいろいろな言葉がありますけど、人間に対する規定、人間をどのような存在として規定するか。人間を、道具を使う動物であるとか、人間は遊びをする動物であるとか、人間は文字を使う動物であるとか、いろいろな人間に対する規定がありましたが、どれも他の哺乳類においても似たものを見出すことができるということが、最近の動物行動学などで明らかにされていることです。しかしながら、人間は学ぶことを生涯止めない動物であり、人間が学ぶことを喜びとし、学ぶことを尊いと思う動物あると、私は規定したいと思うのですが、その規定だったならば、私の知る限り、他の哺乳類にもそれは当てはまらないと私は考えています。人間はそのように人間らしくありたいものである。そのように私は確信する次第ですが、私の定義はいかがでしょうか。
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