長岡亮介のよもやま話108「長生きの意味」

 これを聞いてくださっている皆さんの中には、若い人から中年、そして私のような老人もいると思います。若い頃はわからなかったことで、年取ってからわかることっていうのが、意外にたくさんあります。「若死にするのが勿体無い」と、私が思うのは、このように老人になって初めてわかることがあるということ。それが根拠なんです。老人になってどんなことがわかるようになったかというと、ちょっとすごいことを言いそうだと期待されてしまうかもしれませんが、実はものすごくつまらないことで、それは、「人は老いる。年を取る。そしてやがて死ぬ」ということなんですね。そんなこと若いうちからわかっているよと、言う人も多いと思います。しかし、若い頃わかっているのは、それはそういうものだと聞いてわかっている。あるいは見て知っているというだけの、「知識としてのわかる」ということであって、「自分の実感として理解する。あるいは心でわかる」ということとはかなり違うということを強調したいですね。数学でも知識として数学がわかるという人と、心から数学がわかるということの間には、ずいぶん大きな隔たりがあるのです。それがなかなか、数学を勉強してる時には気づかない、あるいは違いを教えてくれる先生になかなか出会うことができないですね。でも、実は本当は数学にしても意識としてわかってるだけでは無意味で、心でわからなければつまらないですね。心でわかるということは、数学の場合だったら若い頃でも心でわかるのですが、老いるとか死ぬということは、年を取って初めてわかることだということを、今日お話したいわけです。

 どういうことかというと、実は「老いるとか、死ぬということがわかる」ということよりも、本当にわかってきていることは、「若い頃あんなに元気であったということがいかに奇跡的なことであったのか。あるいは夜寝ると朝また元気に復活してるということが、いかに不思議なことであったのか。」それがわかるということです。20世紀後半に医療はDNAの発見というのが大きなきっかけだと思いますが、分子生物学と言われているもの、あるいはさらにはその下にある量子化学と言われる数学的な化学が成長してきたということもあり、医療は大変な進歩を遂げました。昔の医療の常識は、今や非常識と言っていいくらい、医療は大きく変化しました。そして、その変化した医療の中でも以前として昔ながらの医療的な判断が続いているのは、大変に不思議なことです。「健康のためにこれをしましょう」とか、「これをすると健康によくありません」とか、こういうようなことがまことしやかに言われています。「血液サラサラ」とか、「お肌ツルツル」とか、いろんな心を引くセリフが次々と作られては消えていきますけれども、医療の最先端に立っている人から見れば、全くおかしな話なんだと思います。私が申し上げたいのは、そういういかがわしい、人間に対する健康ビジネスとか長生きビジネスの話ではなく、もっと深い「私達が生きているということの不思議、あるいは元気を回復することの不思議。日々の生活を送っていることの不思議。それに感謝するようになる気持ちを持てるようになる」ということです。

 私は、脊椎を支えている椎体という重要な骨が骨折してしまった。椎体骨折ってやつですね。老人が背中が曲がるという病気の中で一番悲惨なやつですが、今は強引なとも言える巧みな工学的エンジニアリング的な手術によって、生活を維持することができております。現代医療のおかげというふうに言うことができますが、その医療もさることながら、その椎体骨折を侵すとそもそも骨がもろくなっている。なんで骨がもろくなるか。若いうちは骨が丈夫なはずなのに骨がもろくなる。それは要するに、人間の体の中で体を支えている一番重要な骨、それを破壊する破骨細胞っていう言葉、皆さんご存知ですか。骨を壊す細胞、その破骨細胞は骨を壊すことによって、若い人の場合は古い骨を壊して新しい骨を作っていくということなんですね。ところが私達のように老人になりますと、骨を再生するための細胞が元気に活躍しませんから、破骨細胞の動きを阻止する、破骨細胞の動きをゆっくりにする薬もあるんですね。私が今、数ヶ月に1回打っている注射っていうのは、破骨細胞の動きをゆっくりするっていう薬なんですね。でも、破骨細胞って、すごいことですよね。

 人間の体っていうのは、実は一貫して自分は生きているっていうふうに思っているのですが、その中で生死が繰り返されている。古い細胞が殺され、新しい細胞が生まれているということです。体の中の細胞は、早いものでは数日で入れ替わる。遅いものでも、本当に1年ぐらいで細胞ごと入れかわってくる。そういう新陳代謝が行われている。生命というのは不思議なことに、生死を塩繰り返す。誕生と死を繰り返すことによって、一つの生命体として、維持されている。そういう不思議な世界なんですね。全ての生命、本当に原始的なアメーバのような生命、あるいはアメーバ以下のウイルスのような、生命と言えないような生命体。そういうようなものから、人間のような非常に複雑な有機体まで。人間のような複雑に有機体と言っても、哺乳類っていうふうに見ると、骨格の構造とか筋肉の構造っていうのは、本当にほとんど変わらないんですね。キリンでもネズミでも人間でも、みんな骨の構造は似たようなもんなんです。本当に驚くべき類似性がそこにある。そして、全てのものが、食物をとり、それを栄養として吸収し、エネルギーとして活動し、そしてその代謝を繰り返しながら、生命活動を行いながら、しかし老いていく。そして、その生命が、運がよければ次の生命と引き継がれていく。運が悪く生命体として朽ちても、それがやがて次の生命体のための栄養となる。人間の場合は、火葬という方法によって、その生命体が次の生命体に利用されるまでには、一旦炭酸ガスのようなものとして、空中に放出するということをしているわけでありますけれども、普通の生命体であれば、朽ちてそしてそれがやがてアメーバによって分解され、植物とかあるいはプランクトンのようなものの栄養になって、そしてプランクトンが他の生命体に食べられ、その生命体がまだ他の生命体によって食べられて、ということを繰り返していくわけです。非常に不思議な生命のいわば輪廻とも言うべき、ものすごい長い長い周期の循環があるわけです。

 その循環にどういう意味があるのか。普通は、繰り返すんだったら意味がない。元に戻ってしまったら意味がない。そういうふうに若い頃だったら思ってしまいがちです。どうせ生まれてどうせ死んでいくんだと。どうせ死ぬなら同じじゃないかと。そういうふうに思うでしょうけど、実は「どうせ死ぬから意味がない」のではなくて、人間は必ず死ぬのですね、みんな長生きしたいと思っているようですが、私もひょっとすると心の底ではそのような生にしがみついている悲しい存在であるかもしれませんが、しかし生命はやがて終わっていくわけです。長生きするということ自身に価値があるというのは、数学的に見ると、90と100と大きな大差はない。90と50の間にも大差がない。50と30の間も大差がない。そういうふうに言えば、人間は何歳で死のうと、それがその人の生命の完結であったということだ。そういうふうに言うこともできなくはない。ただ私自身は、人間の生命の不思議、それに本当の意味で気づくには、年を取らないと無理だなっていうふうに思うので、ぜひ若い人にも、生命が不思議だというふうに思うところまでは生きていてほしいなっていうふうに願います。特に若い人の死は、それだけに痛ましい。そういうふうに感じますけれども、私自身は、長生きが無条件にいいことだっていう今の日本の風潮は、どこかおかしいと思います。

 「生きていることそのものが尊いことだ」ということは、生命が維持されているということが尊いことなのであって、生命を人間の力でもって、何が何でも長生きさせるっていう生命維持装置のようなもの、その発明が人類の偉大な発見であるというような考え方は、おかしいと思います。まして、クローンとして永遠に生きるというようなこと、それは私達の夢では決してないんだと思います。人類は今大爆発をしていて、人口がですね、やがて地球に100億人の人間が生きなければいけないって、そういうとんでもない時代が、すぐ直近の未来に予測されるというところまで来ています。そういうときに、私達の今まで享受してきたような安穏な人生が、待っているかどうかわからないところがあります。でもそうであるからこそ、できたら、「命が不思議である」ということがわかるまでは、生きていて欲しいと思います。長く生きるということに価値が唯一あるとすれば、それは「生きることの不思議さにやっと気づく」ということではないかと考える次第です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました