長岡亮介のよもやま話104「合理性への目覚めを妨害する教育」

 今回は、「合理主義」をテーマとして取り上げたいと思います。合理主義というのは、「全て道理があって、道理に基づいて考える」という考え方ですね。世の中は全て道理に従っているとは言えないわけで、実に不合理なこと、あるいは非合理というべきこと、これが私達の日常の近くにも存在しているっていうことを、私達はこの数年、毎日毎日意識しているわけでありますけれども、一方でそのような不合理、あるいは非合理、それがまかり通ってはいけない、という私達の心の中に強い思いがあるわけです。私達は、やはりずっと道理を求めて生きてきた。合理的でない物をできるだけ排除して生きてきた。そう思います。

 このような合理主義の考え方、これが時代の大勢を占めるというのは、ごく近代になってからでありまして、それ以前の人々は、「不合理を不合理として受け入れる」という生活を自らに強いてきたわけであります。それはそれとして、一つの深い生き方であると私は思いますけれど、やはり人間社会の基本原理は、合理的であるべきだと思います。不合理がまかり通るということは、できるだけ避けたい、と私なんかは個人的に強く思っています。世襲制のようなもの、こういうようなものがだんだんに排除されるというのは、未来に向かっての前進だっていうふうに考える者の一人です。そういう意味では、世襲制のようなものに頼って生きている人から見れば、私は危険思想の持ち主ということになるのかもしれませんけれども、私は、ここでいきなり世襲制のようなものを私有財産というような形に一般化して述べようというわけではありません。例えばタレントというのが、あるいは俳優というのが世襲であるというのはおかしいだろう、というふうに思うだけの話であります。

 ところで私達は、そういう合理性、あるいは道理に合うこと。それを大切に生きてきたわけでありますが、実は青少年期に、そういう合理性に目覚める一番大切な時期、多分中学一・二年生だと思いますが、その頃に教えられる勉強がひどく不合理であるということに、私はちょっと大げさに言うと腹立たしい思いがあります。やはり、合理性に目覚めるその時期には、科学的な合理性、それに基づいて教えるのがいいと思うのですが、私自身の経験で言えば、私が一番不合理だと思ったのは、「水素がHである、化学記号で、塩素はClである。そして、HClは水素と塩素が結びついて、普通は塩化水素ができる」というふうに教えてもらうならば自然だと思うんですが、「それで塩酸ができる」というんですね。塩酸の酸という言葉。これは、酸素の酸であるとすればoxygenでありまして、Oというアルファベットで表される元素記号のわけですね。その塩酸の中に、Oというのは一つも入っていない。「塩化水素水のことを塩酸と昔から習慣的に呼ぶんだ」という古い伝統のことを理解することができれば、その伝統は過ちに満ちているとしても、一旦伝統として確立したものは直すことができない、ということ私も経験しておりますので、そういう不合理があってもいいかなというふうに思うんですけれども、そういう不合理だけというのは、やはり訂正すべきだと思うんですね。酸素をOという。その酸素というのをoxygenというふうに命名したのは、元々はラボアジェという有名な科学者の大きな勘違いに由来するという話が有名ですが、そういうその過ちに基づいて、名称が確定してしまうということ。これは難しいことではあるんですけども、本来ならば訂正した方がいい。しかし、訂正することができないというのが、人間の文化を持っている慣性力、動き出した止まらないというやつです。

 数学においても、同様の誤訳が定着してしまっているっていうことは、日本語の中にもあります。皆さんがよく知っている有理数・無理数というのは、英語のrational number・ irrational numberのそれぞれの翻訳でありますが、rationalという言葉を合理的、irrationalというのを非合理的、あるいは無理というふうに訳してしまったのが、実は大変な無理でありまして、rationalという言葉には合理的という言葉の他に、ratioラツィオっていうラテン語、それが英語化したものがratioですが、「比」という意味があるわけですね。ギア比gear ratioという言葉は、オートバイとか車とか興味のある人はよくご存知だと思います。rational numberというのは、「比を持つ数」という意味なんですね。比で表される数。もっと数学的に正確に言えば、整数比で表される数。ですから、rational numberというのは「比を持つ数」、あるいは「有比数」とでも訳せばよかったんですが、無理数は反対に無比数、比を持たない数ということですね。そうすれば実にわかりやすかったのですが、これも一旦間違えてしまうと、この間違いを訂正するのは非常に難しい。私が期待するのは、せめて中学校・高等学校で教える先生方は、そういう例えば日本語の翻訳1個にしても、そこに無理があったんだということに十分配慮して、「この部分は、本当はもっと良い訳があったんだけどね。それが残念ながら歴史的事情でできなくなったんだよ」と言ってくれれば、ずいぶん子供たちは、合理主義の精神と現実との隔たりを理解しながらも、合理主義をきちっとその精神で生きることができる、と思うんです。

 同様の事は英語にも言えまして、英語で一般動詞・Be動詞、こういう言葉が冒頭で出てくる。仕方がないわけですね。一番基本的な簡単な言葉はBe動詞で表現され、一般動詞のものは難しい。しかるにBe動詞というのは、英語の中では例外的に活用が激しい動詞なわけです。英語以外の言語を知っている方は、別に他の動詞だって活用するんだよということを知っていると思いますが、Be動詞の活用が英語では際立っているわけですね。それ以外の動詞がほとんど活用しないからです。現在形でBe動詞が主語によって活用する。これは例外中の例外というふうに英語の世界では見えるのですが、他の言語、ドイツ語でもフランス語でもイタリア語でも、あるいは古典語、ラテン語とかギリシャ語を知っている人であれば、Be動詞に相当する動詞で、それが普通の動詞と同じように活用するということ、誰でも知っていると思うんですね。しかし、英語の世界では、Be動詞だけに活用が残った。このことは何を意味しているのか私は不幸にして知らないのですが、一般に非常によく使われるものは活用が残る。英語のように進化が進んで、非常に文法が単純化した言語であっても、よく使われるものについては、不規則変化というのが避けられないということですね。そういう事情について、ちょっとした説明があればそれでいいんだと思いますが、Be動詞・一般動詞っていう分類は、そもそも私は不適切だと思うんです。というのはBe動詞とBe動詞以外という分類は、Be動詞だけのその存在を過大に大きくしていると思うんです。ですから例えば動詞で、不規則変化動詞、規則変化動詞というのを挙げて、不規則変化動詞はBe動詞しかないと言ってくれれば、これでずいぶん楽になると思う。

 それよりもむしろ厄介なのは、Be動詞のBeという表現が全く出てきてない段階で、Be動詞というのを言う。I am, You are, He is, She is, We are, They are, You are、areが圧倒的に多い。それがなぜかっていうことも、全然教えてもらえないですね。本当は英語にも2人称単数があったはずなんですが、その2人称単数形がなくなってしまったために、非常にareっていう言葉が頻繁に登場するようになっている。複数形に関して言えば全部areということなんです。だから、2人称単数のYou areというのは、まさに例外中の例外で、2人称単数形が退化してしまったっていう、近代西欧語でも例外的に乱暴な言語である英語の特徴がそこに出ている。それを最初に勉強しなければいけないからBe動詞って言うんですけど、Be動詞のBeが出てくるのは不定詞になってからですね。To be, or not to be, that is the question.有名なセリフですが、Beという動詞にはいろいろ意味がある。そのいろいろな意味を教えることなく、「何とかである」とか「何とかです」と、そういうような単純な使い方だけでBe動詞を教えますね。やがて不定詞が出てくると、Be動詞の不定詞はto be だと。to不定詞のことですね。不定詞っていう言葉も、そもそもおかしいですね。infinitiveという言葉です。infinitiveというのは数学でいうと、infinite、名詞だとinfinity無限という意味です。有限がfiniteと言います。それを否定型でinfiniteというふうに言うわけですね。名詞だとinfinityというわけですが、infinitiveというのも、まさにinfiniteっていう言葉、無限という言葉に由来しているわけで、不定詞というような意味は全くないと私は思うんです。不定詞というのは、その形であれば、どんなものにでも、時には名詞に、時には形容詞に、時には副詞に。そういうふうに多様に使うことができる、そういう表現であるという意味であるはずなのに、何か奇妙に「不定詞」っていう言葉が定着している。私自身はその時分は、「英語とか化学に対して合理性を求めるということは合理的でない」と、悟りを開く様な境地になっておりましたから、あまり気にならなかったんですが、今にして思うと、こういう意味のわからない言葉で、言葉を教えることは、それ自身矛盾であるなと感じます。

 教育においては、できるだけ合理的であるべきである。特に思春期の子どもたちには、「理性の明るさに目覚める」という体験を数多く与えたい。不合理のいわば監獄の中に、閉じ込め入れる。そういうことは、できるだけ避けたい、と私は強く願っています。一般に学校のときに秀才と言われた人が、学校を卒業するとただの人になってしまうということは、このような「不合理を不合理と感じず、先生が言われるままに従順に受け入れるということがある」からではないでしょうか。子どもたちが批判的精神を持つということが、最近時々強調されますが、その批判的精神をエンカレッジするような教育の内容がなければ話にならないと思うんですね。そうでなければ、批判精神というのは、「人の言うことをきちっと聞かなくなる。人の意見を全部聞く前に自分の感想を喋りだす。」そういうどっかの国の子どもたちと同じようになってしまうと私は思っています。そういうわけで、今日のお話は、「合理的な精神」、これを鍛えるには、思春期が最もふさわしい。その思春期で教えられる勉強が、残念ながら合理主義的にきちっと構築されていないということに対して、私達大人は責任があるんだということ。それをお話したいと思いました。

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