だいぶ前のことになりますが、私自身が、「勧善懲悪」善いことを勧め、悪いことを懲らしめる「正義の味方」という側に、自分を置いていた時代があった、子供時代のことをお話いたしました。子供時代というのはそういうものではないかと思います。私はかなり大人になっても、やはり「正義」というのが、社会の中で貫かれなければならないと、そういうふうに、考える素朴な人間でありました。正義を堂々と破る。そういう不逞の輩、政治家の中にしばしば見られましたが、実はそれは政治家はその正義でないものが報道されるだけで、政治家の不正義・邪悪は最もわかりやすく平凡なものに過ぎない。世の中はもっともっと巨大な不正に塗れている。もちろん、政治家の場合は政治家である以上、社会に対して、国民全体に対して責任を負っているという、一種の普遍性を持って行動することが期待されているわけですから、それに反するときに、それを追及されるのは、ある意味で当然です。
一方、私企業の人が自分の利益のために、あるいは自分の会社の利益のために活動しているときに、その活動が利己的であるというふうに非難されることは、昔はあまりなかったわけです。最近は、いろいろな私企業・株式会社などであっても、その会社が、社会のためにどのように貢献していくかということが、会社の価値を定める。株主もそれを望んでいるんだというような風潮が、日本全体を支配していまして、会社の投資者に対する情報開示、よくIR (Investor Relations)っていう言葉を使いますが、「投資家との関係において、会社が投資家の利益のためではなく、それだけではなく、社会に貢献する。そして社員にも貢献する」ということをうたうようになっています。そうなってくると話がちょっと違ってきますけれども、しかし、それは言ってみれば、公の器、公器としての企業という意味、現代的な意味であって、本当は資本主義の精神からすれば、会社が自分の利益を追求すること自身は、悪いことではないと言わなければなりませんね。
しかしながら、会社が利益を上げるために、他のものを犠牲にする。他の者の血や涙の上に、自分の会社の利益を拡大しているとすれば、それは許されないという非難がありうるわけでありますね。傭兵、雇われの兵隊。兵隊として、他国の人間を殺すことを自分の仕事に選んでいる。それは恥ずべきことである。それがいかに会社の利益を上げようと、それはよくないという話はだいぶ前にいたしました。そして、またある意味では軍隊、警察というのは、そのような直接的な傭兵システムではないとしても、その本質的な構造において、そういうものを持っている。侍というものも、そういうものであるというようなお話も前にいたしました。今日、新たにお話しようと思っているのは、それとはちょっと違って、言ってみれば、世の中の不正あるいは邪悪に対して、それを一方的に非難するだけでは、本当はいけないということ。つまり、不正義を働いている側の人にもそれなりの言い分がありうるということ。人の言うことに耳を傾けることの大切さについてです。
このことは口で言うほど簡単なことではなくて、すごく難しいことです。そこで私はわかりやすい例を引こうと思うのですが、例えば、「外国語の難しい文章を読む」という経験をするといたしましょう。特に皆さんが普通の中学生のように、英語などについても辞書を引き、単語の意味を調べながら、理解しなければならないとして、読む対象が童話ではなくて、それなりに高級なレベルの書籍であったとすれば、皆さんはたった1行を読むことでも、えらく苦労するはずです。何言ってんだかわかんないというふうに、言ってしまうことが多いのではないでしょうか。私は、実は「そういう勉強は、あまりにも難しければ、能率が良くない。もっと基礎的なところからレベルに合った勉強をする方がいい」という今風の言い方。それにある根拠があると思うものでありますが、最近のように「わかりやすいことが大切だ」と、わかりやすさをアピールする。そういう授業ばかりであるとすると、何か心配になるんですね。
つまり、子供でもわかることというのは、所詮そんな難しいことではない。大事なことは、世の中には難しいことがあるという経験ではないかとさえ思うんです。難しいことがあるときに、その難しさに耐えて一生懸命考える。そういう姿勢を、今の学校教育は子供たちに指導することに、失敗しているんではないでしょうか。どんな難しいことも、いい先生が教えてくれればわかりやすく、すっとわかる。こういうことが一番大切なことのように思われている。でも、本当に大切なことはわかりづらい。わかりづらいことの中に、大切なことがあるといった方がより正確かもしれません。簡単にわからなくても、重要なことはあるわけです。
そして特に、正義とか悪とか、人々を裁く。そういうような立場に人はすぐ立つわけですが、そのような立場に立ったときに、それが実は容易でないことであるということを、いつも心の底にはきちっとしまっておくっていうことが大事で、しまい込んでおくってことが大事ではない。そうではなくて、心の底にそういうものをきちっと持ち続けるということですね。そのことが大切だということです。そしてそのためにも、実は簡単そうに見えるようなものでさえ、哲学の本でもいいし、数学の本でもいいのですが、童話のように子供向けに書かれているのではない本を、きちっと読むというような作業。必ずしも外国語である必要もないわけですね。日本語で書かれていてもわかんないものはわかんないと思うんです。そのわからないという体験がとても大切ではないかということです。
注意していただきたいのは、わからないことが大切だとあまり強調すると、何だ不可知論ですかとかというふうにレッテルを貼られそうです。不可知論というのは、「知ることができない。物事は最終的な回答はわからないものだ」ということを振りまわす立場ですね。これは非常に不潔な考え方で、それを言い出してしまったら、理解することへの努力を放棄する。それを奨励することになってしまいます。私は全く反対です。そうではなくて、不可知論へと決して傾くことなく、少しでもわかりたい、わかりたいと思って努力する。その努力は大変につらいものだと思いますが、やる価値があるということです。そのくらい実は簡単には見えている、「正義とは何か。悪とは何か」というような問題についても、その人の立場になって考えてみるということ。悪人の言い分も、それなりに聞いてみると面白いものである、ということですね。
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