長岡亮介のよもやま話101「予想が正しくないうちは、まだ科学として未熟である」

 前回述べたウイルスの突然変異、ウイルスに限りませんが、生物において起こる突然変異という不思議な現象。これは数学的に考えれば、確率論的な世界で、どんな変異が起こっても不思議でないわけです。しかしながら、生物の関係の人々はしばしば、「それ(突然変異)が種の生存目的、あるいは種の繁殖目的にとって有利な方向に働く。そして、その働いた結果が現在の生物多様性である」という言い方をなさいます。しかしながら、私は個々の生物を見ていますと、その生存戦略と言われているものは、結果として見るとそのように合理的に見えるだけであって、実は局所的に全てを精密に観察するならば、生存戦略に合わないものがいっぱいあったに違いない、と思います。「いっぱいあったに違いない」というところまでは生物学者も同意して、「そのように合わなかったものは淘汰されたんだ」と、こういうふうに説明なさいます。しかし、私から見ると、その自然淘汰というものについて、私達は本当に深く理解しているのだろうか。私達はいわば結果論で、「この結果が出たからにはそれが不利であったからに違いない」という説明をして、現象を説明した気になっているのではないか、という懸念を私は持ってしまうのです。

 ちょうど天気予報士が予報士という肩書きを持ちながら、「昨日言ったことは外れましたけれども、外れた理由は・・・」というふうに長々と弁解しているようなもので、これは結局「天気予報ができない」ということの証明であるわけですね。天気予報は数学的に言うと、複雑システムと言われるものでありまして。非線形という項を含む、予測の難しい世界であるわけです。「近似的に未来を予測することでさえ難しい」ということが、数学的には簡単にわかるのですけれど、短期的な予報に関しては当たる場合もあるんですが、最近の天気予報を聞いていると、短期的にすら当たらない。そして当たらなかったことを、ごめんなさいっていうふうに言うならば、競馬場の前で「さあ、この次の競馬、レースは、これは当たりだよ。3、4だよ。3、4!」とか言っているおじさんたちと同じようなもので、言ってみれば予想の正しさというか、正確さによって、次にもお客さんに情報を買ってもらえるか買ってもらえないか、そういう瀬戸際に立たされているわけですから、そういうビジネスもありうるかなと思います。株で儲けるっていう人たちと同じですね。もっとも株に関しては、私はその道のプロの人から聞いておりますが、実は素人さんがやっているものは危険極まりないもので、基本的にはゼロサムゲーム。実際はゼロでしかない。そういう中において経済成長という局面があると、みんなが儲かる。しかしそうじゃないときには、結局のところ和は一定であると、そういう冷厳たる現実があるんだそうですが、ちょっと話が脱線しました。

 しかし、そのような天気予報のような、言ってみれば結果オーライの説明というのは、いや、結果から元の説明を修正するような、そういうことが許されるならば、科学ではないと私は思うんですね。もちろん、科学でないような説明にも一定の意味がある。私達は「科学的な認識を、全ての世界に適用するわけではない」という科学の限界をも、きちっと理解しなければならないのですが、少なくとも科学を名乗る以上は、予想が正しくなければならない。「予想が正しくないうちは、まだ科学として未熟である」ということを、堂々と認めるべきだと私は思うんですね。そして人々も科学というのは所詮そのようなものであるという認識を持つべきであると思うのですが、わが国では人々の科学的リテラシー、科学的な読み書き能力に関して、若干不安を感じざるを得ない面が強い、という残念な現実があるように思います。

 そして、そのような残念な現実は、まさに中学高等学校における科学教育が、科学の教育になっていない。言ってみれば科学的なショー、あるいは科学的な説明の練習にさえなっていない。ちょうど中世までの人々が天文学というものを詳細に研究しながら、それによって地動説に目覚めるどころか、天動説のより詳細な説明を試みてきたように、科学に対して、いわば、後ろ向きの努力、あるいは真似事の努力にとどまっているという、私達の学校教育の抱える限界を見る思いがするということです。

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