長岡亮介のよもやま話99「経済学的なものの見方と人生の使い方」

 前に一度お話ししたことがあるんですが、全面展開というわけにはいかなかったので、今日は論点を絞って、「経済学的なものの見方」ということについて、少し突っ込んでお話したいと思います。経済学というと、何か特別に難しいことをやるように思いますが、実はそうではなくて、人間の行動をコントロールするのに、利益を、言ってみれば、目の前にぶら下げてやる。そうすれば、みんなそれに食いつくだろうと。それに対して損失や危険が目の前に見せつけられたら、人々はそれを避けるであろう。という人間の持っている、ある種の性(さが)というか、本質というか、業(ごう)といいましょうか、そういうものに付け込んで、というと悪い表現になりますが、そういう性(さが)を利用して、国家とか社会をより合理的に運営していく、という科学であると私は考えているのですけれども、一方で、そのような経済学的な原理に従って、一人一人が自分の行動計画あるいは日常生活の指針を決めるとすれば、それは馬鹿げたことであると思うんです。というのは、私達が利益とか、あるいは危険とか、そういうものだけを原理として生きているんだとならば、人生は真に儚い。儚い人生がますます儚く見えてしまう。そういうふうに考えるからなんですね。

 どういうことかっていうと、最近若い人たちは、コストパフォーマンス、それを略してコスパというような言い方もあるそうですが、実に馬鹿げたことで、コストパフォーマンスとかコストベネフィットっていうのは、言ってみれば、産業界の人が、実業界の人ですね、ある投資をしてその投資からどのような利益が見込まれるか。その利益がコストに対して見合うものであるならば、会社の経営責任というものをきちっと説明することができる。そのことが説明できないならば経営者として失格である、という発想から出てきたものであると思います。コストをかければ良いものはできることはわかっているけれども、しかし、それから得られる利益が小さすぎれば、コストをかけるという決心に対して、それにブレーキをかけなければならないという局面が、企業の経営なんかではしばしばあるのだと思います。

 反対に企業は、リスクマネジメントっていうことも盛んに言われるようになりましたけれども、いろいろな経営において、リスクを回避するということ。それが最大限経営者に求められていて、想定されているリスクを避けるためにどのような対策を打ってきたかということ。これが株主総会なんかで追及される。アメリカなんかではそういう趨勢が強くなってきているわけです。そういう傾向を受けて、日本でもそういう風潮が一部にあるわけですが、リスクマネジメントとか、コストパフォーマンス、あるいはコストベネフィットという。「コストに対してベネフィット・利益がどのくらいあるかってということを、人生の指針にするのは馬鹿げている」というふうに私が言うのは、人が生きていく目的は、会社の経営とは違うでしょうということです。

 会社の経営というのは、その経営を任せられたならば、その会社の従業員が最も幸せになるように、そしてその会社に投資した投資家に最大限の満足がいくように、経営結果を出さなければいけない。これが経営の指針だと思いますね。しかしながら、例えば、従業員一人一人の満足とかっていう言葉を気楽に、今の経営者たちは口にしますが、それは何なのかということを突き詰めて考えると、決してやさしい問題ではないわけです。日本では労働組合までが、実は賃金の上昇であると、そういうふうに思っていて、今の時期は春闘とかっていうお祭り騒ぎのように、毎年の恒例の年中行事のように行われている。しかしながら、労働者が、本当に幸せをつかむために何をなすべきかということを真剣に考えている労働組合は、今どれくらいあるんでしょうか。私は所詮賃金労働という厳しい現実の中にあって、その中で賃金さえ上げることができれば、それで労働者の戦いが勝利の方向に進んでいるんだ、と考えている労働組合の幹部がいるとすれば、それは誠にな情けない労働組合の幹部だと思うんです。「労働者が、賃金が上がって、良い暮らしができる。安定した暮らしができる」ということで、これは賃金もろくに保証されずに、明日のパンにも心配があるそういう日々を送る人から見れば、よほどいいじゃないかというふうに思われがちですが、やはり労働者にとって一番の大切なポイントは、働きがいではないでしょうか。自分がこの会社でこのような任務に就いているということが、実は自分にとってだけでなく、家庭にとっても、そして社会にとっても、自分の大切な多くの人々にとって、重要なことである。そして、自分の働きがなかったならば、その成果が達成できないんだってというふうに、時には幻想かもしれないけれど、そういうふうに思うこと。それはいわゆる生きがいとか働きがいというものでありますが、それこそが大切なのではないかと思うんですね。

 日本では、賃上げをすれば労働者の待遇が良くなるというふうに言っていますけれども、少しヨーロッパやアメリカの人々の暮らしを見ると、日本の平均的な一般大衆、一般的な労働者、これはいわゆる賃金水準という点では、多少は昔より良いっていう面もあるかもしれませんけれど、日常生活の送り方に関しては、真に貧しいと言わざるを得ませんね。日本の普通のサラリーマンたちは、ストレスを発散するといっても、せいぜい安い飲み屋に行って、みんなで乾杯って大騒ぎするという程度ではないでしょうか。フランスのように夏には数ヶ月に及ぶバカンスを取って、地中海の気候の良いところまで行って、そこで1ヶ月以上のんびりと過ごすというようなことは、日本では想像さえできませんね。つまり、私達はいろんな休日が増えていますけど、その休日は、実は休日産業のためにお金を浪費する、という目的のために設けられているようなもので、本当にのんびりと、お金を使うことなく、豊かな時間を過ごすというふうには設計されてないわけですね。昔といってもごく最近ですが、GoToトラベルとかGoToイートという馬鹿げたキャンペーンがありました。本当に、私達が旅行をしたい、美味しいものを食べたい。そのことによって、得る幸せっていうのは確実にあるんだと思いますが、それはそんなに安っぽいものなんでしょうか。私達はもっともっと幸せになっていいと私は思うんですけれど、そういうことが日本では許されていません。みんなが一斉に祝日には休みを取り、ラッシュのような高速道路あるいは新幹線や飛行機を利用して、ぎゅうぎゅう詰めになって移動し、そして疲れ切って帰宅する。こんな休暇の過ごし方が豊かな過ごし方とは思えません。

 私達は、決してコストパフォーマンスということを気楽に言うべきではない。私達の生活、人生ってというものは、株式会社の決算報告のように、数値で出せるような利益と損益、それでできてないわけですね。私達は、生まれてきて、必ずいつかは死んでいく。必ずいつかは死んでいくわけですから、もし死ぬことが敗北なんだとすれば、全員が敗北の厳しい運命を、最初から運命づけられて生まれてきている。そういう虚しい人生の中で、私達は、生まれてから死ぬまでいろいろな生き方を通じて、結局は何をやっているかというと、「自分はなんのために生きていくのか。そしてこれからどのようにして生きていくのか。」そういうことを豊かに考えるための時間を使っているんだと思うんですね。そういう人生の使い方というのは、経済学では測ることができない。お金の問題ではないからです。じゃー何だ。心の豊かさとか、そういうような安っぽい言葉で、私は言い換えたくない。そうではなくて、もっと平たい言葉でいいから、毎日が楽しいとか、毎日が笑顔に溢れているとか。本当のことを言えば、私としては「毎日が知的な感動に満ちている。今まで、昨日までわからなかったことが、今日は明白にわかるようになったというような感動に満ちている。そういう知的な興奮に満ちているということが人間にとっては一番大切なこと」じゃないかと思うんです。

 年を取ってからは、一番時間を使いたいことは勉強ですね。特に私は若い頃から語学が割と好きでよくやってきたんですが、ヨーロッパ語が中心でした。アジアの言語とかアフリカの言語いうのは、どちらかというと二の次というか三の次というか四の次というか、ほとんど何も知らないできました。ですからそういう言語を勉強したいという気分があります。それと同時に、全く自分の知らなかった世界のこと。私自身は子供の頃、実は絵かきになろうという野心を持っていたんですが、それをあるとき断念しました。その絵かきは、これからは難しいと思いますが、それに近いことをやってみたいというふうに思っています。人は、それは趣味に生きることだっていうふうに言うかもしれませんが、そうではなくて、趣味というよりは、自分の新しい知的な発見の世界、そこに見いだしたい。

 子供の頃、王羲之(おうぎし)という人の書を見たときに、ものすごく感動して、なんて美しいんだろうと思いました。ずいぶん年をとってから顔真卿(がんしんけい)という人の書を見たときに、王羲之のようにバランスは取れてないんだけど、なんという立派な凛々しい書なんだろうって、そういうふうに思いました。新しいものとの出会いを通じて、心が揺さぶられる。こういうことはお金では絶対に買うことができないですね。そして、そのようなものと出会うためにお金が必要じゃないかっていう人がすぐ出てくるんですが、確かに最小限のお金は必要かもしれませんが、お金を持てば持つほど、実はそういうものを見る目が曇ってしまうという人生のパラドックスがありまして、我々が求めるば求めるほど、それから遠のいてしまう。そういう可能性を考慮しなければならないということです。

 私は、経済学というのは、人々を正しく導くいわば社会政策の上では時に有効である。時に無効である。しばしば無効であるというふうに言うべきであると思いますが、最近の金融情勢を見ても、国際的に見ても、誠にまだ経済学というのは、生物学や医療ほどにも科学にはなってない、というふうに私は改めて思いましたけれども。しかしながら、そういう限界はあったとしても、何らかの意味で少しでも合理的に社会をリードしていかなければいけない、政策を立案していただけければいけないというときに、経済学的な発想というのは、大変重要であると思います。しかしながらは、その経済学を例えば、GoToトラベルとかGoToキャンペーンとかって、そういう餌で釣るというような、本当に目先のことに使うとなると、人々の心が卑しくなるだけですね。

 私は、若い人たちがコスパなという言葉を口にするのを聞くと、若い人たちが、それほど卑しくなるほどにまで追い詰められているのかと。昔は、私が若い頃は、若いうちはもう本当に自由気ままに生きていた。自分が人生の主人公である。そういうふうに思っていたのに、今の若い人たちはもういじめられ、いじめられ、本当にいじめられ抜いて、そして最終的に、最後の最後にコスパで勝負するというところにまで、追い詰められてしまったのかと思って、私達の世代の非常に重大な責任だということを、痛感する次第です。それで責任を追及する流れの中で、若い人たちに、どうか、「人生は経済学で考えてはいけないんだ」ということ、それを理解してもらいたいと思います。

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