長岡亮介のよもやま話94「物事がわかるということの面白さと難しさ」

 今回は最初からバッハの有名なチェロのソナタをお聞かせしています。それは、今回は「物事がわかるということの面白さと難しさ」についてお話したいからです。私達は、「考えればわかる」とか「話せばわかる。」そういうふうに「わかる」という言葉を気楽に使います。中には「わかる。わかる。言わなくてもわかる」と、そういうふうに言う人さえいます。「わかる。わかる。言わなくてもわかる。聞かなくてもわかる」ということは、もうそのことは、自分はわかっているという前提について語っているんだと思いますが、本当のこと言うと簡単にわかることは、実は大したことでない。簡単にわかることは、実はもうわかっていたことであって、「わかるという言葉を使う価値さえない」ということを話ししたいです。反対に言うと、「わかる」ということは大変なことで、これはほとんどミラクルとしか言いようがないような、本当にあり得ないようなことなんではないかと思うんですね。

 私達が新しいものをというときに、それは大変な努力を伴っていることが多い。特に私達は異文化、異なる文化や自分たちと異なる文化の中に生きている人のこと、その人は何でそういうふうに生きるんだろうということを、私達は気楽に「なんであんなことやんの、信じられない。」こういうふうに言ってしまいがちですが、実はその人たちがそうすることの中に長い歴史があり、深い伝統があり、そういうことを踏まえて初めて異文化に対して少しでも理解することができる道が開ける、ということだと思うんです。

 理解するという英語はunderstandと言うこと、皆さんよく御存じですね。understandは動詞で、understandingという動名詞の使い方もあります。understandというのは、何で理解するという意味だと考えたことがありますか。underというのは「下に」という意味ですね。そういう前置詞として使われる言葉です。standというのは「立つ」という意味ですね。「下に立つ」と「理解する」。これがどうして結びついているんだろう。実は英語の語源の一つであるドイツ語にも全く同じ表現がありまして、ドイツ語でverstehenと言いますが、そのドイツのverstehenも「下に立つ」。そういう意味なんです。この言葉はとても良い言葉だと私は思うんですね。というのは、結局のところ、他人のことあるいは他のこと、そのことが新しく理解できるということは、自分がその人を支えるような形で下に立つ、その人の拠って立つ基盤に自分がなる、ということを示唆している。言い換えれば、自分がその人の下に立たない限り、その人のことを理解することはできないということですね。

 このチェロのソナタは、私は今はなくてはならないような、本当に生まれつき親友だったような気分のする曲なんですが、最初に聞いた頃は、なんだそれと思いました。特に面白いと思わなかったんですよ。妙に単調で、ドラマティックなところがない。そういうふうに感じていたんですね。カザルスという天才的なチェリストが、この音楽に潜んでいる深い芸術性を発見したと言ってもいいかと思いますが、カザルスのおかげで私達はこの曲に出会うことができ、そして聞けば聞くほど、これがいかに大切な曲であるのかということがわかってきます。そのわかるまでには、結構退屈な時間を過ごさないとならないんですね。聞いていっぺんにこれが好きになるっていう人は、やはり音楽に関してよほど造詣の深い人だと思います。そういうポピュラーなクラシック音楽の楽しさもよくわかりますが、必ずしもポピュラーとは言えない、古典中の古典と言ってもいいようなバッハの無伴奏、チェロだけのソナタ、これが持っている深い奥行き。これを理解するには、バッハの下に立つということはとてもできないくらい難しいことですが、繰り返し繰り返し、いろいろな演奏を聞くことを通じて、この曲がどうして作られているのか。この曲の中にバッハの挑戦がどこにあったのか。そのバッハの試みた挑戦を、現代の音楽家たち、あるいは現代の演奏家たちといった方がいいですね、それがどのように解釈し、どのように再現しようとしているか。全てのところに、あらゆる人の独創的な工夫、そして超人的な努力が潜んでいることが感じられるわけです。

 同じように他人を理解することも決して容易なことでない。ほとんどは人間と人間の場合はすれ違いだけ。「人間の出会いはすれ違いの始まり」という言葉もあるくらい、理解し合うことはとても難しいことでしょう。しかし、その難しい理解をすることができたとき、私達の喜びの世界が広がるのだと思います。今回は、「理解」という言葉は、下に立つという、英語ではそういうふうに表現すること。それに象徴されるように、私の言葉で言えば、「理解する。自分以外のものを理解するということは、自分自身が変わるということ」である。自分自身が変わることなしに、他人を理解することはできないということです。自分自身の持っている限界、そういうものに向き合いながら、私達は初めて私達の狭い枠を超えて、新しい自分に出会うことができる。そういうことをverstehenあるいはunderstandという言葉は、表していると思います。

 日本語の理解というのは、「ことわり」物事の基本原理、ことわりを解する、わかるということで、これもなかなかいい訳語だと思いますけども。しかし、残念ながら日本語の理解には、自分自身が下に立つということを表現することはできていません。それに対して英語のunderstandというのはとても良い言葉ではないかと思います。そして、そのことをわかりやすく説明するために、ちょっと皆さんの耳に聞きづらいかもしれないバッハのチェロソナタを流しました。バッハはもちろんさらに聞きづらい曲もいっぱいあるわけですが、チェロソナタはそういうバッハの曲の中で最も美しい曲って最も深い曲だと私は思いますが、そういうものでさえ、最初はなんだこれっていうくらい訳のわからないものでありました。そういう思い出話を含めて、お話したいと思った次第です。ですから、数学がわからないなんて嘆いている人は全然嘆く必要はない。数学は長い長い人類の歴史の中で作り上げられた、いわば知の遺産でありますから、その知の遺産を自分たちが簡単にわかるということはない。簡単にわかることは、実は元々わかっていたような、そういう陳腐なことであるということです。本当に大きな発見、それを理解することも容易なことでない。

「数学の下に立つ」understand これは数学が不得意な人に特に伝えたいメッセージです。

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