長岡亮介のよもやま話92「人間の持つ暗さ」

 私はこれまで、ここでは人間の持っている明るい可能性について、楽観的に話すことが多かったと思います。基本的には、今も私はそういうふうに考えることが多い人間ではありますが、若い頃と違って、さすがにいろいろなことを見聞して人生を振り返ると、それほど話は簡単ではないということも、わかってまいります。人間の持っている非常に深い、仏教的な言い方をすれば「業」というんでしょうか。キリスト教的に言えば、「原罪」、元々の罪というのでしょうか。「人間が本当に明るい存在というわけでは必ずしもない」と、思わざるを得ない場面に、決して遭遇することが少なくないわけです。今回は、少しそういう暗い話をしてみたいと思います。というのも、私達は人間の明るさを見るときに、暗さを無視して、一方的に明るさだけを強調するというのは、何か一種の虚偽であって、本当の真実へ接近する道とは違うと、言わざるを得ないからです。

 私が「人間の持つ暗さ」というものについて、一番思うときに、それは人間の持っている悪辣さとか、あるいは人間の持っている非常にしょうもない矮小な側面とか、そういうことを言いたいのではないです。私は、人間を矮小にする、あるいは人間を非常に卑俗なものにするというのは、どちらかというと、そのように人々を誘導しているからであって、本来人はそうではないと思うんですね。人々を非俗なものへと導く制度的なものとして、私は社会が人々に対して為す様々な悪事。例えば、今話題になっている「少子化対策」ということで、子どもが生まれていると、何歳から何歳の子はいくら、第一子はいくら、第二子はいくら、というような形でお金を配布するという制度です。そういう制度がもし無かったならば、子どもが好きな人は、自分の子どもが生まれて、一人目の子どもがかわいくて、それでずいぶんお金がかかって苦労するだろうけれども、その苦労は報いられる。なぜならば、自分にとってその子がかわいいから、というふうに生きていたと思いますが、今みたいに、一人いくらということになると、もらえる子どもともらえない子どもがいるのか。うちの場合はこんなにいるのに、これがもらえないのはおかしいじゃないか。そういう話になっていってしまうのは、これは経済学の教えるところで、人々はそのようにそういう状況に置かれたら、そのような方向に引っ張られていってしまうものだと思うんです。私は、それは人間の持っている悲しさではあるけれども、人間の持っている深い暗い側面だとは思わない。暗い側面を利用しようとしている政治家がいるだけだ。そういうふうに、思うんですね。本当にちょっとした暗い側面。そうでなければ、そんな暗い側面に出会うことが生涯なかったであろう人に、そういう目を見せているというのは、社会が悪いと思うんです。

 しかしながら、もっともっと深刻な場面があります。全く不条理にも、事件に巻き込まれて、本来ならば何の関係もないようなそういうストーリーで、命を失う。あるいは、場合によっては非常に残酷な形で、抹殺される。殺される。そういうような事件、これが、こんにちも後を絶ちませんけれども、そのようにして、不可逆的な傷を負った人。その傷を背負って生きていかなければならない人。あるいは、不幸にも、生命までも奪われてしまった人。その人にとって、この出来事は、決して忘れることのできない、ものすごく深刻な問題であって、それを引き起こした相手、それを許すことは決してできない。そういう気持ちになるのは、人間の持っている最も深い恨みの感情ですね。

 この人間の持っている恨みの感情の深さ。これについては、古来からいろいろな物語がありますけれども、その中で私達にとって最もわかりやすいのは、ハムラビ法典にあると言われている「目には目を」という言い方でしょう。目をえぐられたならば、その恨みを返すには、相手に同じ辛さを与える。そのことによってしか心の平静を保つことができない。だから、被害に対して、その被害にちょうど対応する罰を相手に与える。これが正義だ、という考え方です。これは、非常に古い起源を持つものでありますが、人間の持っている、そういう恨みの感情、それを晴らすための唯一の方法が、そういうものでしかないということ。それを明らかにしているんだと思うんですね。日本で昔あったという仇討ち。「親が殺されたら、その殺した人を子どもが何をもってしても殺す」ということによって、親の仇討ちをするというのですが、そのような仇討ちということで、恨みが本当に解消するのか、というとそれほど簡単ではない。そもそもまず第一に、相手が殺されたときには、相手にも家族がいますから、その家族がその恨みを晴らした人に対して新しい恨みを抱く、ということになるわけですね。これが「恨みの連鎖」というものです。恨みは恨みを返すことでしか解消できないにもかかわらず、恨みを解消すると、そこに新しい恨みが生まれるという、非常に厄介な人生の闇だと思うんです。この深い闇に対して、明確な回答が出せるわけではない。

 しかし最近の日本では、その恨みに対応するだけの厳しい罰、極刑を科すというのが、一般に風潮化している、というような気がして、少し心配です。それはそのような形で恨みを返しても、それは新しい恨みを生むだけであるし、恨みを持っていた人が、それによって本当に恨みが晴れて、晴れ晴れとした人生が切り開かれるわけではなくて、新しい負い目を自分の人生に負うことになると思うからです。私も教師という気楽な家業をやってきましたけれども、その中で多くの学生をもしかしたら、傷つけ、学生が未だに恨みを持っている、そういう可能性は決して否定できません。恨みというものには全て合理性があるわけではなくて、「自分が悔しい思いをした。自分が酷い目にあった」っていうことに対して、恨みを持つわけでありますが、そのひどい目にあったということを、裁判所が判定するように、いわば法律的な基準に従って、神様のような立場で裁くということができるわけではありません。実際、裁判所が民事訴訟に関して、判決を出すということ。それを避けて、できるだけ調停とか和解に持ち込もうとするのは、裁判所にしても、そのような人生の恨み辛みがいっぱい重なった難しい問題に対して、白黒はっきりさせろと言われても、それはあまりにも難しい問題であるからですね。要するに、ハムラビ法典の時代の単純さで済ませば話は簡単にも見えますが、事情を詳しく理解すれば理解するほど、実は恨みは深いものがあり、それを解決することは容易なことでない、ということがわかります。

 私は時々、音楽、絵画、彫刻、書、そういうものを見て、あるいは陶器や磁器を見て、その美しさに打たれる。それは何に役に立つのかと、みんな思うと思いますが、別に役に立つわけではなくて、私達は単に感動する。私達の気持ちが嬉しがっているというだけだと思いますが、なぜそのような美しさに対して、私達は心を打たれ、それであたかも自分の人生の明日が変わるかのように喜ぶようになるのか、と言えば、そのような本当の美しさを通じて、私達の持っている悲しい性(サガ)、悲しい業、悲しい原罪、そういうものに対して、ほっと救われた気分になる、という一面があるのではないかと思います。確かに、子供の頃、私は音楽を聞いて涙するというようなことは、ほとんどありませんでしたけれども、人間の持っている様々な悲しさ、それを思い出してしまうと、音楽だけで涙が止まらなくなるという経験が、いくらでもあります。それは、音楽のおかげで、私が慰められている。私が本当に人生の深い闇から、少し明るい遠くの灯台が見えるところに、導いていただいている。そういうことなのかもしれないと思うんですけれども、私達は、やはりそのままの存在では、決して救われない。でも、崇高な芸術とか、あるいは文学とか、演劇とか、さっき言ったものよりも、もっともっと広くなります。場合によっては、現代であれば、お笑いとか漫才のようなもの。そういうのは普段は下品なものっていうふうに思っていますけど、下品なものの中に、何かしらある人間の深い感情を揺さぶるもの。そういうものの存在を、私は時々あるのではないかというふうに思うことはあります。

 私達は、この恨みの中に生きるということは、本当はものすごく悲しいことで、そんなことは続けてはいられない。我々はそういうことでもって救われることは決してないと思うんです。そういう人間の持っているどうしようもなく、救われない、そういう側面を たまに 考えるということも、必要ではないか。というのが、今日のお話です。私達は、決して高尚な学問の世界に邁進しているときのように、常に明るいというわけにはなかなかいかない。そういう情けない存在であるということを思い出しましょう。

 インターネット上で、例えばWi-Fi提供する会社がありますね、高速通信サービス。どこの会社がいいとかということを言っている中に、この会社は絶対駄目ということを、私から見ると何の根拠もなく言っている人がいます。おそらく、恨みがそれをさせているのでしょうね。人間がそういう恨みを持ったときに、実は恨まれている人よりも、恨んでいる人が最も深い不幸の中に、さ迷い込んでいってしまうという人生の深い真実、それにみんな気がついてほしいと思います。我々は恨みとか憎しみとか、そういう人間の持っている本当に仕方のない感情。それから自由になることはできませんけれども、そういう自分の持っている憎しみや恨み、そういう世界に、深みにハマればハマるほど、実は私達は自らがますます救われない存在である、ということを、自ら見出すということにならざるを得ない。そういう悲しい存在であるということですね。しかし、最後は明るく締めくくりましょう。そういう私達は暗い存在であるからこそ、芸術、学問、そういうこよなく明るい世界に対して、深い憧れを抱き、そこに向かって努力することによって、我々の持っているしょうもない暗さから、少しでも自由になることができるのではないか、と思うのです。

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