長岡亮介のよもやま話90「痛みの本質」

 昨日は私達が、「物を見、あるいは聞き、味わい、匂いを嗅ぎ、考える」といったときに、私達が使う機関、組織ですね、「目で見るとか、耳で聞くとか、鼻で嗅ぐとか、舌で味わうとか、頭で考える」と、そういうふうに気楽に言うことの持っているあまりにも乱暴すぎる論理に対して、慎重に考える必要性を訴えました。今日は似たことなのですが、もっとわかりやすい例が思いつきましたので、それについてお話したいと思います。

 私達はしばしば歯が痛いとか、つま先が痛いというふうに言います。痛みは人間にとって最も辛いものですよね。私は子供の頃、「歯が痛い」というのが、非常に大きな悩みの種で、ずいぶん苦しみました。しかし、歯が抜けて、虫歯になりづらくなってきますと、その歯の痛みから解放され、大人になってからはあまり苦しむことはなくなりました。それといっても歯のお手入れが決して良くなったわけではありませんので、年をとってからはやはり、再び歯の痛みに悩まされるという年になってまいりましたけれども、一昔の人間と比べると食生活が変わったからなのか、栄養が良くなったからなのか、一般に昔の老人と比べると私たち老人の世代の人は歯が丈夫ですね。歯磨きの仕方が良くなったということもあるかもしれません。わたしが子どもの頃までは、本当に今だったら歯医者さんが怒鳴って叱るような歯の磨き方、これが一般的でありました。今はすっかり歯のお手入れというのは、子どもの頃からしっかりとなされるようになってきて、幼児期の歯痛、歯の痛みに悩む人はいなくなったと思います。しかし、歯が痛いというときに、そこに原因があって、痛みに原因となる歯を場合によっては抜歯する、というような外科的な治療を行うと、その痛みから解放されました。私たちは痛みというのはある部位が痛い。ある場所、特定した、限局した場所が痛い。そういう風に感ずる。それが痛みの基本なんですが、では本当にその部位が痛んでいるのか、というと、わたしはその後年をとって、別の痛みを知ることを通じて、痛みというのが痛いと思っている先、そこに痛みの原因があるとは必ずしも限らないという痛みを体験することになり、痛みとは一体何だろうと考えるようになりました。

 わたしが最初に患った大きな痛みは、昔蓄膿症とか鼻中隔湾曲症の手術としてしきりと行われた根治手術と言われるもので、鼻中隔と言われるところあるいは副鼻腔と言われるところに、穴を大きく開けて、そこに膿が溜まることがないようにきれいに清掃して、二度と膿が溜まらないように、すごく大きな穴を開けるという手術です。その手術を今もやるかどうか私は知りませんが、昔はたくさんやられたと聞きます。ところがその手術にはなんとびっくりする後遺症がありまして、本当に親指の太さほどもある大きな穴を副鼻腔に向けて開けるわけですが、人間の体というのはものすごくよくできていて、その空いた穴を周りの組織が次第次第に盛り上がって、穴を閉じてしまう。本来は膿が溜まるはずがない穴に膿が溜まってしまう。しかも、一旦開けた副鼻腔というのは、口の粘膜の組織が副鼻腔の方に上がっていって、本来、粘膜を持っていない副鼻腔が粘膜で覆われ、そして粘液を排出するようになる。その粘液が、副鼻腔の排出孔が閉じてしまったために、その中で粘液が溜まり、その溜まった粘液がやがて膿となって、そして、その副鼻腔の横を通る顔の神経、三叉神経というのを圧迫する。その圧迫された三叉神経は、首の裏、耳の裏、いろんなところを走っていますので、その走っている神経の根幹に当たる部分、そこを副鼻腔でぱんぱんに腫れ上がった膿の袋が圧迫するらしいんですね。私がお医者さんから聞いた話ですから、かなり不完全で厳密に正しくないところをあるかもしれません。大雑把な話です。その圧迫された三叉神経が今度は何をするかというと、その神経が言ってみれば痛覚を伝達するわけですね。痛みの感覚、痛覚を伝達するんですが、元々歯が痛いとか、耳が痛いとか、あるいは首が痛いとか、原因がないところが痛むと感ずるわけです。

 私の場合は、最初ひどい歯の痛みでした。久しぶりに歯の痛みが私を襲ってきたと思いました。ちょうど私は九州の大学に集中講義に行っておりましたので、月曜日から土曜日まで毎日朝から晩まで、講義が待っていたんですが、もう行ったその日、つまり日曜日着いた日の夜からひどく痛み、月曜日は朝、講義に行ったものの、もう痛くて痛くてたまらないので、事情を話して、午後の授業は急遽休講にしてもらいまして、歯医者さんに行きました。そして歯の治療を一通りやったんですね。その歯の治療を3日間ほど受けましたけれども、3日目くらいに、その歯医者さんが「これで治って、まだ痛みがあるということであれば、それは歯の痛みでないので、耳鼻咽喉科に行きなさい」と言ってくれたんです。なんで耳鼻咽喉科と私は思いましたけど、あまりにも痛くて辛いので、耳鼻咽喉科に行きました。そしたらその耳鼻咽喉科の方が名医で、私の鼻を診て、「これは痛いですね。ものすごく痛いと思います。でも、九州に出張している間に直すのはちょっと難しいですから、とりあえずの治療をしておきましょう。東京に帰ってゆっくり治療してください。」と言って応急治療してくださいました。そしてそれによって私はその1週間の講義を、かなり休講を多くとらせていただきましたけれども、その分の講義のための予備的な資料を作ることによって、講義をさせてもらったことにして、1週間講義を終えて帰ってまいりました。その中では、先生方相手の特別講義っていうのを何とか済ますことができたわけです。

 驚いたことに、その歯の痛みではなくて、副鼻腔の中にできた昔の手術の後遺症による結果、穴を開けたが穴がふさがってしまっているというものがありました。その根治手術というふうな名前がついているんですが、根治ではなくて、必ず復元するんですね。人間の体っていうのはそれくらい、ものすごく復元力があるということを知り、それで東京に帰ってきてまた手術を受けました。この業界では先端的な病院で、その手術を受けたんですが、その15年後くらいにまた再発しまして、本当に痛みに苦しめられました。そのときも歯が痛い、首が痛い、喉が痛い、目が痛い、ありとあらゆるところが痛みを訴えたんですが、その痛い部分には原因がなかったということでした。

 もう一つ例があります。それは私が今から3年ほど前に「圧迫骨折」というのをしまして、なんと脊椎の椎体というのを骨折してしまったわけです。大きな原因は運動不足でしょうが、歩きスマホというのをやっていて、何回か転んだということが大きいんじゃないかと思っております。そして、その圧迫骨折をしたときに、椎体という肋間神経が通っている部位ですから、そこを骨折したということでもって、肋間神経が本当に誤動作するわけですね。その部位が痛いということよりはむしろ下腹部が痛い、あるいは腰が痛い。そういうものすごい痛みを感ずるんですけれど、その骨が痛いという感じではないですね。痛みを感じる部位と痛みを発する原因となっている部位の損傷、必ずしも関係がない。神経というのは、脳に対してどこが痛くなっているということの警告を発する、非常に重要な情報回路なのですが、その情報回路が誤動作せるということ。これが、我々が生きていく上で、生老病死っていうふうに言った、生きていくことの苦労の第一に挙げたものなのではないかと思います。

 痛みというのは本当に辛いのですが、辛い原因が私達にはっきりとわかるわけではないっていうことです。脳が痛いと思っている。脳が痛いと思わなければもう痛みはないわけです。実際に、痛み止めというのを飲んで、その神経を鈍らせる、あるいは、いわゆる麻酔を打って、神経の伝達、それをブロックしてやると、痛みはなくなるわけです。ですから、痛みというのは、痛み信号を脳が受容して、痛い痛いと思っているということで、余計なお世話をしてくれているということになります。普段は私達の体を健康に保つために重要な情報の伝達が、正しい情報伝達するとは限らなくなる。これが加齢、年とともに、正しく働かなくなる。若い頃も子供の頃も、痛みに苦しみましたけども、年取ってからも痛みに苦しむ。こちらの方はどちらかというと、神経の誤動作によるところが大きいということを、思い知らされて、痛みの本質っていうのは一体何だろうと思うようになりました。当然のことながら、痛みを伝達する物質とか、あるいは痛みを和らげるための物質とか、そういう化学反応を介して、信号が伝達していますから、信号そのものは解析できています。

 しかし、痛みそのものというのは、信号とは違うわけですね。例えば赤信号は止まれというのは、赤信号は止まれという約束、法律で決まっているからそうなわけで、赤信号は進めというふうに約束すれば、赤信号で進むことはできるわけです。ですから、生体の中での信号も、信号の処理があらかじめ決まっているから困るわけで。信号の処理を変えれば、痛みの信号が快樂信号になったりする。あるいは満腹信号になったりするということだって、ないわけではない。と私なんかは、物語を書くように想像するのですが、痛みの本質っていうのは、そういう意味で、実は神経で伝達された情報処理の結果にすぎない。その情報処理が、情報処理をするというその普通のコンピュータで言えば、2進的な情報処理01、何進法だと情報処理ってのは本質的にそのデジタル信号のようなものだと思って構わないんだと思いますが、アナログであろうとデジタルだろうと基本的な情報信号の処理で誤っている。誤った情報の表に基づいて情報が解読されてしまっている。

 不思議なことに、人体はそのような誤処理というのをしてしまう。そういう存在なんだということ。私達が、耳がいいとか、目がいいとか、頭がいいとか、鼻がいいとか、舌が効くとか、いろいろと言いますけれども、それは信号の処理が非常に繊細に行われているということであり、かつ、その信号処理が真に都合よく行われているということなんですね。決して私達は、歯が痛いとか、頭が痛いとか、足が痛いとか、って言いますけど、そこが痛いのではない。それは、その部位が痛いというふうに信号が処理されているということである、ということです。痛みの最中にあって、痛みとは何かということを考えることは、痛みのつらさから、ちょっと遠のくための一つの手段ですので、私が愛用している方法を皆さんにお伝えしました。同様に、楽しみとは何か、美味しいとは何か、かぐわしいとは何か、心地よいとは何か、感動するとは何か、ということ。これをこのようにして考えることも、とても楽しいことではないかと思います。

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