長岡亮介のよもやま話75「コピーレフト」

 少し昔といっても私の人生の中ではつい最近のことだったと思われる事柄について、お話したいと思います。私が若い時代、私はおっちょこちょいで、子供の頃からというか学生時代からコンピューターが好きで、当時コンピューターは大学にあるだけで、それを友人との順番待ちで使う、というような環境でありましたけれど、やがて以前お話したように、マイコンとかパソコンと言われるものが普及し始めます。

 普及し始めるといっても1990年以前にはまだそのようなものはかなり高価なものでありました。そしてハードウェアとしてのコンピューターが高いというだけではなくて、その上で何か有用なソフトウェアを動かそうとすると、そのソフトウェアの方がハードウェア以上に高いものでありました。それは工場で量産が利くハードウェアと違って、開発に膨大な時間とアイディア、汗と涙が必要なソフトウェアが、商品として複製するのは簡単ですが、その開発にかかった経費を価格に転嫁するとなれば当然高価なものになっても仕方がない、というところもあります。

 そして、私自身は教員になってからは、コンピュータを教えるということ、あるいはコンピュータを利用して教えるという機会に多く恵まれましたが、最初のうちこそそういう有料なソフトウェアを使うことによって切り開かれる世界を実感してもらおうと思って、そういう有料のソフトウェアを利用してまいりましたけれども、有料なソフトウェアの中には、今では信じられないと思いますが、最も基本的なソフトウェアであるオペレーティングシステムOSというものもありまして、これもまた有料であったわけです。それを学生に教えれば、学生たちはそれを購入するか、または違法にコピーするかしかなくて、購入するとなればかなりの値段で、違法コピーをするとなれば、それは著作権侵害。著作権侵害というのは、学問を志す人間にとっては絶対にやってはならない。言ってみれば絶対のタブーと言ってもいいくらい、重要な否定的行動であるわけです。ですから学生に違法コピーを推奨したくはない。そうなると、結局購入せざるを得ないということになりますが、その購入したときにその対価に見合うメリットが学生一人一人にあればそれもいいのですけれど、それがないとなると学生にそのソフトウェアを購入させるということにはためらいがありました。

 学校によってはそのような心配がないように、キャンパスライセンスというような言い方で、あるいはスクールライセンスというような言い方で、その学校の中で使う分にはいくら使っても良いという、大規模な契約を大学あるいは学部と結ぶ。そのことによって、それに所属している人が自由自在に使える。場合によっては家にいてさえ使える。自宅にいても、大学なり学校なりのソフトウェアを利用することができる。大学で契約したってソフトウェアっていうことですね。そういうような形ができてきましたけれど、これはソフトウェアのメーカーから見れば、「学生時代にそのようなソフトウェアに慣れれば、学校を出た後も、そして就職した後も、ずっとそのソフトウェアの便利さに打たれて、それを使い続けるだろう」という、言ってみれば広報戦略であるわけですから、生涯にわたって学生たちが縛り付けられるということを、いやしくも教員たる私がその道へと誘導するということは、あまり自分としては是としなかったわけです。

 そういう曖昧な態度を続けていた中で、今はグニューGNUっていう名前、動物の名前としてはヌーと読むのですが、グニューと発音するのは本当であるというふうに言われていますが、そういう団体ができて、Free Software Foundation、フリーなソフトウェアのFoundation、言ってみれば財団形式のグループでありますね。そんなに大人数で運営されているわけではありませんが、その周辺に無料で働く膨大な数のボランティアがいて、そのグニューグループを中心として、あるいはグニューに属しない人であっても、グニューの精神に共感して、フリーのオープンライセンス、特にそのライセンスはコピーライト著作権という言葉、これを逆手にとってコピーレフト、「ソフトウェアの自由な配布を禁止することを禁止する。」つまり、ソフトウェアは自由に配布してよい。自由に配布する際にお金を取ってもそれは構わない。しかしながら、ソフトウェアの中核的なアイディアの結晶とも言うべき「ソースコード」と言われるプログラムの元になる、人間が理解できるプログラミングコード、それは公開しなければいけない。そして、人のものを利用して新たに開発したときには、その元のものから変更したということについて元のものの典拠を明らかにしなければいけない。こういうような新しい著作権の主張のもとで、無料で利用できるソフトウェア、実際上無料で利用できる。そういうものが膨大な数開発されてきたわけです。残念ながらこれもう米国が中心、アメリカが中心の運動でありますけれども、日本からもたくさんのContributor(コントリビューター)がいました。

 そしてそういう中で、あるとき突然、オペレーティングシステムという最も重要なソフトウェア、これでさえも本当に高性能のものがオープンソフトウェアとしてリリースされたんですね。これはグニューからではなくて、なんと1人のLinus Torvaldsリヌストルバルス(リーナス・トーバルズ)という個人からでした。たった1人の人間がUNIXに相当する非常に大きなソフトウェア、もう開発することに成功した。このことは大変なニュースでありますけれど、当時は本当に衝撃的でありました。そのオペレーティングシステムが、今ではもう普通の辞書にさえ載っているLinuxリナックスあるいはLinuxリヌックスと言われるUNIXと互換の、ほとんど互換性があると言っていい、そういうオペレーティングシステムでありまして、このLinuxが様々な人の改良を経て、人々のより使いやすいものへと、1995年くらいから日本ではWindows95というのが発売されて、インターネットが普及し始める、その時代からものすごく使いやすいものとして提供され始めたわけです。

 日本では、Linuxの普及は必ずしも諸外国におけるほど急なものではありませんでした。むしろ反対にLinuxが発売されてから、そうではないコマーシャルベースのオペレーティングシステム、MicrosoftのWindowsあるとか、マッキントッシュのオペレーティングシステムmac OS、さらにはiPhoneとかiPad、あるいはその元になったiPodのオペレーティングシステムであるiOS、こういったものが開発されてきました。ちなみにMac OSに関してはその元になったものは、UNIXの互換のソフトウェアをオープンソースで作るという運動は、Linux以外にもありまして、日本人の貢献もかなり大きいと言われているFreeBSDというシステム、それを元にしたというふうに聞いています。

 UNIXという非常に素晴らしいオペレーティングシステムが、昔は有料でAT&T (American Telephone & Telegraph Company)とかUniversity of California, Berkeleyとか中心として、それから発生したSun Microsystems、Sunという会社、太陽っていう会社ですけど、Stanford University Networkの頭文字に由来すると聞いていますが、そこから購入しなければならなかった大きくは二つの潮流、UNIXの二つの潮流に対して、フリーのUNIX互換のオペレーティングシステム、これがリリースされたわけですね。一つがLinux、もう一つがFreeBSD。FreeBSDもLinuxと同じような使い勝手の良いシステムでありましたけれども、ビジネス的に成功したのは、むしろLinuxの方かもしれません。

 多くのソフトウェアを必要とする機器の中に、いわゆる電気機器ですが、そういうものの中にembedded Linuxもうそこに組み込まれたLinuxとして、ユーザーが気づかない形で使われているものも含めると、膨大な数のものはあります。こんにち普及した携帯電話というのも、このようなものを起源としているわけです。そして、文化上の大きな革命としては、そのようなUNIXのことを知らない人でも使えるようなLinuxあるいはFreeBSD、それの発展系、それが普及したことを通じて、そのオペレーティングシステムの上で動く様々なアプリケーションソフトウェア、最近は日本ではよくアプリというふうに訳されますが、基本ソフトウェアであるオペレーションシステムに対し、その応用ソフトウェアであるアプリ、アプリケーションソフトウェア、これがオペレーティングシステムですら無料ですから、アプリケーションソフトウェアに関しては、もうただ当然、ほとんどの場合は無料という形で配布されるようになりました。これ自身は大きな革命でありまして、「もし気に入ったならば、お金をいつか払ってほしい」というシェアウェアというようなシステムもありました。「みんなで共有して開発を続けるためのお金を面倒見ようよ。」こういうような趣旨でしたし、またその他に、「非常に低価格で頒布するのでぜひ継続的なサポートをお願いしたい。」そういうソフトウェアもありました。

 しかし、この携帯電話を中心とした、ほとんどオペレーティングシステムを意識することのない情報機器の普及を通じて、「ソフトウェアはただ」というような感覚を、人々がいつか持つようになってしまったように思います。「ソフトウェアがただで使えればこんなに素晴らしいことはない。」と、私自身もそのようなソフトウェアをいくつか使っておりますけれど、実は無料のソフトウェアは、その開発者が「この素晴らしいソフトウェアを多くの人に楽しんでもらいたい。」という純粋な善意で開発していること以外に、このソフトウェアを普通には売ることができないが、それを売るための仕組み、これを大企業に倣って作ろうと、大企業というのは今世間ではGAFA、あるいはGAFAM、そういうふうに呼ばれている、いわゆるIT企業あるいはICT企業の大手でありましてGoogle、Amazon、Facebook、Apple、そして最後にMをつける人はMicrosoftでありますね。

 その他にも大きな会社がいっぱいありますが、その人たちは無料でサービスを提供しながら、その無料のサービスを通じて、実は巨大な利益を上げる仕組みを作り上げました。その巨大な利益を作り上げる基本のシステムとは、「広告・宣伝」ということです。人々の情報を集めることを通じて、様々な企業に広告を売る。広告のプラットフォームとなるということです。そしてユーザーはそのような広告を強制的に見せられて、あるいは全く知らないうちに、広報用の重要な情報を盗み取られて、それとの引き換えで、無料で利用できるということ。これが今普通になってしまっている。中には本当に強引に広告を見せるというものがあります。強引に広告を見せるという、そういうサービスを売ることによって儲けている会社もあるわけです。実に馬鹿げたことでありますけれども、本当に大企業の真似をして、零細のほとんど個人に近いような会社が、そのような広告で収入を得る。そういう「広告資本主義」ともいうべき時代に入っています。このことがもつ、「人々の時間を奪い、人々の購入傾向、あるいは購買意欲、そういうものを勝手に操作する。無意識のうちに広告によって人々を誘導する。」そういうことが本来は許されないという倫理的な基準、それが失われて、それが当たり前だという世の中になってしまっている。

 このくらいだったならば、本当に大切なものはお金を払って広告無しでやりたい。そういうふうに人々は思うべきです。実際、Google社はGoogleの提供するYouTubeという動画のリソースに対して、「広告無しでアクセスしたいならば、毎月いくらか何がしかのお金を払ってくれ」というサービスを展開することによって、逆にそのサービスを買わない人に対しては、大量の広告を強制的に見せる、ということをやっている。このことに対して、現代の特に日本の人々は、「ただで見られるんだから、それでいいや」とか、「面白いから、それでいいや」というふうになってしまい、そうなってくると、「長いものをじっくり考えながら、情報に接する」ということはできなくなりますから、ものすごく短い、30秒で終わるような情報、そういうような情報で、「一瞬面白いと思えればそれでいい」っていう、そういうことなんではないかと私は想像するのですが。少しでも長い時間、沈思黙考を必要とする、そういうような思索活動から私達が遠ざけられているということに対して、深い危機感を持つべきではないかと思うんです。

 そのように考えてみると、昔の人は偉かったなとつくづく思うんです。それは私が子供の頃、しばしば親や先生から言われた言葉でありますが、「ただほど高いものはない」とか「安物買いの銭失い」という言葉でした。これはおそらく江戸の中期から末期にかけて繁栄した商人文化の中で培われた、「商人の道」だと思うんですね。ビジネスで金を儲けようと考える人間は、ただほど高いものはないということを知るべきである。安物を買って、それで得した気分になるかもしれないから、それは結局「銭失い」、自分の大切なお金を失うことだと、こういう教訓を残してくれていたわけです。さてそれから本当に150年とか時を経て、私達はそのレッスンをすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。私達は、貴重なソフトウェアを開発する人たちの汗と涙の結晶である、そういう製品を利用するならば、そのことに対して心から感謝し、その人たちの生活を支援するためのお金を喜んで出すということでなければいけない、と思います。

 最近、ウィキペディアという情報サイトが寄付を募っています。日本では寄付をする人が非常に少ないようです。私はそれをとても残念に思います。「ただで利用できるんだからそれで構わないじゃないか。その方が損しなくて得をする」と、こういう考え方ですね。ウィキペディアの情報自身にはかなり中身がない。あるいは嘘っぱちである。そういうものは少なくないのも事実です。しかしながら、それをウィキペディアは少しでも直そうと努力しているし、またウィキペディアの情報の中には、本当に立派な論文も存在しているんです。そのような立派なものを残そうとしている努力に対して、寄付をするというのは当然のことで、日本ではそれが税金の控除の対象にならない。非常におかしな文化が、行政サイドでも続いているわけですけれども、私達一人一人の国民は少しでも自分を賢い存在に接近させるために、私達にできる努力をすべきだと思います。今回は最近の風潮を、一昔前の状況と比較的な方法で論じ、そしてそのことを通じて私達の文化にもたらされた大きな変容、それについて考えるきっかけを皆さんと共有したいと考えました。

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