今日は、高校生以下の皆さんにとってはおそらくとても関心が高いであろう「数学はなぜ誤解されることが多いのか」という問題について、ちょっと別の角度から考えたいと思います。数学に関する典型的な誤解というのは、「数学は公式に従って、あるいは問題の解法のテクニックと確立された技法、それに従って、答えを求めることである」と、そういうふうに思っている人は少なくないと思います。日本ではこの傾向が、国際的に見て際立って高いように思います。なぜこのような傾向が強くなっているのかというと、「日本の数学教育が、ある意味で、国際的に見ると異常に高い水準である」ということが、挙げられるでしょう。つい最近のテレビやあるいは海外の報道で見たのですが、海外の大学の入学試験問題、欧米の場合には大体「資格試験」でいわゆる成績が判定されるわけでありますが、その資格試験の問題を最新の学習型のAIでもって模範答案が書けたという話です。日本の入試問題に対してもそのようなアプローチがあるというふうに、ずいぶん喧伝されて、そのプロジェクトが実際には失敗に終わったっていうのは5年くらい前の話ではないかと思います。そのプロジェクトのリーダーの1人が、全く通用しなかったという話をしていましたが、それは国際的な大学入試のレベルと日本の大学入試のレベルを混同している間違いであり、日本の大学入試は難関大学の入試に限らず、国際水準で考えると、みんなかなり難しい。それは数学的に難しいのではなくて、実は本当に難しい問題は少数の大学が出題されていて、他の大学で出題されるのは、それの、今の若い人の言葉を使わせてもらえばパクリ、つまり、それを適当に改題して、問題を変更して、それを本当は研究の世界では、「銅鉄主義」といって、「他人が銅でやったものを鉄に直して実験してみると、また面白い結果が出る」というものでありまして、研究論文を書くための最もよく使われるテクニックなんですが、銅鉄主義というのは研究においては最も軽蔑されるべきものでありますが、それが後を絶たないのが実情です。
しかし、実は大学入試問題特に数学においては、この道徹主義が本当に横行しておりまして、クリエイティブな思考で作られた、出題された問題は、例外的である。ほとんどが既にどなたかがアイディアを出した問題で、それを言ってみればアイディアを剽窃して、盗んで、自分で出題したかのように装っているだけの問題なわけです。このことは意外に知られてないけれども、わかっている人にとっては自明な事実なんです。ただ、わかっていても、これを公表するとちょっとまずいという日本的な事情もありまして、あまり言われていないということだと思います。そのような問題を解くこと自身は本当は難しくないので、人工知能でいけると思った日本の研究者がいらっしゃることはむべなるかなと思いますが、実は国際的に考えると日本の入試問題っていうのはかなり難しい。つまり、問題文の本質を読み解くのが、まだAIのレベルでは難しいということですね。
実は私が最近見た海外のニュースですが、大学入試の問題をAIが解いた。そのAIの問題というのが、日本では小学校5年生くらいなんでしょうか。例えば、「東京から品川までまっすぐ行く道がある。その道を、東京駅を出発して、太郎さんが毎時5kmの速さで品川に進みました。それから30分して花子さんが時速7kmで品川に向かって出発しました。さて、花子さんは太郎さんにいつ追い付くでしょうか」というような問題ですね。私は東京品川間の正確な距離も知りませんから、大体それを直線で結ぶこともいろいろ道があるので難しいかと思いますが、国道1号というふうにすれば距離を測ることができるでしょう。実は、東京品川間の距離は短すぎて、今の問題設定ではふさわしくないのかもしれませんが、ともかく東京品川間の距離が、仮に、20kmあったとすれば、この問題を解くことは多分簡単にできるでしょう。
この程度の問題が大学入試で出題されている。それを人工知能が解いた。これが大騒ぎになっているわけですけど、大騒ぎするほどの必要がない。そのくらいルーティン化された問題であるわけですね。たくさん事例を知っていれば、その中から正解を推定することができる。そして、欧米の数学の試験の場合には、しばしば証明問題ではなく、計算問題で、しかも計算結果の中で正しいものを3個の中から1個選ぶとか、5個の中から1個選ぶ、という程度のものですから、日本とは本当は比較にならない。そういうことを知らないまま、日本の人がその報道に接すると、「そうか、受験勉強する代わりにAIを使えばいいんだ」って、こういうような発想になってしまうかもしれませんが、本当に難しいことが機械にできるはずはない。
今、コンピューター人工知能がものすごく注目されているのは、私が皆さんにお話するこのお話を、日本語のテキストとして自動的に起こしてくれる、文字起こしですね。これは、一昔前は「自然言語解析」というふうに言われたものでありますけれども、これが本当にかなりの長文であっても、あるいは長文になればなるほど、正確にそれらしく文字起こしをしてくれる。これはすごい技術でありまして、大変に私も助かっていますが、実はこれで本当に正しく文字起こしがされているかというと、AIの方は何も日本語がわかっているわけではありませんから、それらしい日本語の言葉の文字に変換してくれているだけです。私の知人の牛山さんがこれを変換してくれているおかげで、チェックしてくれているおかげで、皆さんに文字として読んでいただくものはできるというだけなんです。
ちょっと話が脱線しましたけれども、日本はこのように小学校段階から、数学が国際的な水準から比較してみてもかなりレベルが高い。こう言ったからといって誤解しないでください。アジアの国々は概して欧米に比べればレベルが高いわけで、私が申し上げましたものには例外があって、例えばシンガポールとか、台湾とか、あるいは韓国とか、欧米と比べると遥かにレベルの高い入試問題を出題する国はいっぱいあります。それでも日本は群を抜いて難しいと私は思っています。その難しい入試問題を解くためには、本当はしっかりと考えて、その問題の面白さがわかるということが大切なんですが、普通の一般の遊びたい盛りの子供たちに、そのようにしっかりとじっくり考えなさいということを要求することは、しばしば難しいですよね。私自身の少年時代を思い出してみても、私は朝から晩まで遊んでいる少年で、学校で過ごしたことは、体育とか図画とか工作とか、そういうことしか思い出すことができません。先生は一生懸命教えてくださったということは、私は疑っていません。私はそのくらい先生が大好きでした。ですから、本当に学校が好きだった。でも学校に行って私にやっていたことは、いわゆるお勉強ではなかったんですね。では何だったのかというと、もう記憶の中にないのでわかりませんけれど、それは「物事がわかる」っていうことを経験させるということだったんだと思います。「わかる」とはどういうことか、「わからない」ということはどれほど寂しいことか。その「わからないという寂しい状態」から「わかるという明るい世界に突入する」ということがどういうことか、多分そういうことを本当に小さな事柄ではあるけれど、教えてくださっていたんだと思います。
しかるに、今の子供たちは残念ながら、先生の問題もないとは言いませんが、すごく急いで勉強しなければならないっていう状況に置かれている。多くの事柄を覚えなきゃならない。そういう状況に置かれている。そういうふうに思います。このことは私自身の経験でも、私が長野の田舎から横浜の小学校に6年生の時に転校したときに、そこで行われている学習というもの、あるいは勉強というものが、長野時代のものとはまるで違うのでびっくりしました。そこでは毎時間テストで、しかも知識を問うという問題です。小学校の6年生のときに、私の友人たちは電気抵抗で並列とか直列とか、そのときの全体の抵抗計、全抵抗を計算するということができていました。私は抵抗というものもわかっていない少年でありましたから、本当に驚きましたけれども、おそらく今にして思えば、単なる丸暗記ですね。後になってわかってみれば、物理で習うところのキルヒホッフの法則というものの最も簡単な応用に過ぎないのに、それを小学校でクイズのようにして素早く解かなければいけないということを学ぶ。そういうことが全ての子供たちの目標になると、勉強して理解するということは難しいことですから、それに時間をかけていられなくなる。だから、結果だけを覚えればいい。あるいは結果を導くための方法を覚えれば良い。言ってみれば、数学問題の解法のマニュアルですね。最近では「トリセツ」という奇妙な日本語も普及しているようでありますが、そういう理解はしてないけれども、原理はわからないけども、その説明書に従ってやれば使いこなせる。そのことが大切だっていうふうに、人々が小学校の頃から強く思い込んでいるということが、数学の誤解の背景にあるのではないか、と思うようになりました。要するに、難しすぎる問題を要求されて、そしてそれをある方法を知っていれば解ける、その方法を知らなければ解けないという場面に、子供の頃から置かれると、いつの間にかその問題を解くための方法を知っていることが勉強だっていうふうに思い込まされてしまう。それは単に誤解と言うべきなのですが、その不幸な経験を通して、「数学っていうのは公式に従って問題を解くことだ」、そういうふうに思い込まされてしまうということではないでしょうか。
実は数学で一番面白いのは、「何でその公式が成り立つのか」ということです。その公式はなるほどこういう意味があるのかということです。小学校の頃の数学あるいは中学校高校の数学が難しいのは、そこで学ぶ基本公式、それをきちっと学習するために本当に厳密に言えば、大学以上の数学が必要になるということが背景にあり、高等学校以下の数学の勉強では本当に難しい証明はさておき、「とりあえずの納得で済ませていいよ」という思いやりといいますでしょうか、余計なお世話と言われるかもしれませんが、それが学校教育の中には根強く残っている。ですから、世の中で本当に最も誤解の甚だしい人は、非常に解きづらい問題を短い時間で解ける。この「テクニックを理解していることが、数学でとても大切なことだ」というふうに思ってしまう。私に言わせれば、数学の問題をどれくらい時間をかけて考え続けることができるか。その長時間の思考の持久力、その「持久的な思考による数学的な思索の深まり」、これこそが大切だと思うのですけれど、いつの間にかそういうことに興味がなくなってしまう。
例えば、分数の割り算は、割る数と割られる数、それを分子と分母を逆にして掛け算にすれば良い。このテクニックは覚えれば何でもない話です。多くの子供たちがそれは何で?どうして?って最初は思うはずです。でもある時、「いいやいいや、それは覚えてしまえば答えを出せるんだから」というふうに、妥協してしまうんだと思うんですね。人生について一般化するのはちょっと大げさかもしれませんが、人生っていうのは不思議なもので、妥協すると妥協には果てしがない。堕落には果てしがない。転落すると、本当にどんどん落ちていく。転げ落ちていく。そういう面があるんです。数学の話に戻りますが、数学で「最初に習った時、不思議だな。なんでだろう」っていうふうに思ったときに、学校の先生が「それはとってもいい問題だから、考え続けてごらん。きっと君なりの答えがわかるから」と、励ましてくれればいいんですけど、反対に「そんなこと考えていたら受験に失敗するぞ。損だぞ。覚えてしまえば何でもないんだから、このくらい覚えてなんだ、普通じゃないか」と、そういうふうに思索を刺激する代わりに、思索を弾圧する。そういう傾向が出てきていることが残念なことです。
例えば、面積の公式にしてもそうです。正方形の面積、あるいは長方形の面積、三角形の面積、台形の面積、平行四辺形の面積、いろいろありますが、実は本質的にはみんな同じものなんですね。みんな同じものだったら、何か一つ覚えればいい。何か一つ覚えるのだったらどれを一つ覚えればいいか、というふうに考えたときに、私自身は子供の頃は軽薄な少年で、三角形の面積公式が一番面白いと思ったんですね。三角形の面積公式を覚えていれば、平行四辺形の面積公式が出るし、平行四辺形の面積公式がわかれば長方形の面積公式もわかるし、長方形の面積公式がわかればその特別な場合として正方形の面積公式も出る。当然、台形の面積公式も対角線で二つの三角形に分けてやれば、三角形の面積公式に過ぎない。「だから三角形の面積公式さえ覚えればいいんだ」というのが、少年時代の私の結論でした。三角形の面積公式が、実は平面図形を考える上でとても面白いということは、その後数学の理解が深まってくると、それはそれとしてわかるわけで、小学校の頃に私が考えたほど話は単純ではないということも、高等学校以上あるいは大学の数学に触れるとわかってくるわけですが、小学生は小学生なりにそういうふうに納得することができました。まして円の面積とか、球の表面積とかそういうのを小学校の子供たちは丸暗記する。その丸暗記するのに、公式をしっかり覚えるために「3分の心配あーる(4πr)」か何だかよくわかりませんが、私の今の覚え方は子供たちから聞いたものですから間違っているかもしれませんし、「3分の心配あーる 2乗」だったかもしれません。4πというところは、円周率のπ、本当に正しくはピーなんですけど、日本ではアメリカ的にパイって言いますね、その円周率と日本語の4で「心配」というふうな日本語にかけているところが面白いのかもしれませんが、実はそんなダジャレ、くだらないですね。ダジャレで覚えるということくらい、くだらないことはない。年号にしたってそうですよね。私は、「いよー国が見える(1492)とコロンブス」とか、「いい国作る(1192)と鎌倉幕府」とか、「火縄くすぶる(1789)フランス革命」とか、そういうのを覚えました。そういうなかなかよくできているものはそれなりに面白い、と思いますけれども、特にフランス革命の方は面白いですよね。いかにも火縄燻るフランス革命1789年、バスティーユ攻撃。
しかし、とにかくそういう「機械的に覚えることは数学では一切意味がない」ということを、小学校のときに誤解してしまう。それで覚えて、それで済むんだっていうことです。もし仮に「そのような公式に従って問題を解きなさい」という場面があったら、その公式を使って問題を解いて構いませんが、でも「なんでこの公式使うんだろう」と、そういう不思議さを抱き続けていただきたいですね。その「不思議さを自分なりに解明し納得すること。」これが数学なんです。ですから、数学には回答が無限にたくさんある。よくこの考え方が一番優れているっていうふうに言う人がいます。確かに短さの点で一番優れているとか、あるいは子供たちが納得する上で一番納得しやすいとか、いろんな基準があると思います。「現代数学的な視点から見て、非常に深いものの入り口である」というのが、数学的に優れた考え方であるという見方もあると思います。私は高校生の頃はそういうふうに感じていました。
しかしながら、それも必ずしも正しくないと、今は思っています。数学はその学習者の発達段階に応じて、いろんな考え方があっていいんだと。いろんな考え方で、素朴なレベルから高等な部分までいろいろあっていいんだけれども、そのいろんな考え方があるということが、数学の魅力で、その魅力に気づくまで考え続けるということ。これが数学を学習することの本当の意味だっていうことを、理解していただきたいと思ってお話させていただきました。
ところで、最近はこの手の情報をインターネット上で誰でも気楽にアクセスできるようなものをやると、「このサイトにアクセスしていただいてどうもありがとうございました。チャンネル登録をよろしくお願いします。そして、『いいね』を忘れず押してください」とか、そういうような風潮が世の中に一般化しているようですが、私は教育ほど広告とそりに合わないものはないと思っています。教育は、人に宣伝広告して売るものではなくて、学習者の自らの意思によって接近することこそ素晴らしいものなんだと思います。が、皆さんいかがお考えでしょうか?
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