長岡亮介のよもやま話69「Sustainable Development」

 このところ2回ほどは私達の日常生活にも身近な音楽とか絵画といういわゆるアート、日本では芸術っていうふうに訳しますけれども、「芸術」という言葉は「芸と術」っていう言葉を二つくっつけて、しかし元々の「芸と術」っていう言葉、つまり話芸とか手芸とかっていうときの芸、あるいは技術というときの術、その「芸と術」を持っていたニュアンスから遠く遠のいて、何か日常的な生きるということは少し離れた高尚な世界のことを言うと、日本ではそういうニュアンスで使われることが多いんではないでしょうか。しかし、実は私達にとって最も身近なものであり、とりわけ音楽に関しては私達がクラシックと呼んでいるクラシカルミュージックというものも、西欧においてごく最近開発された新しいものであり、他方、絵画や彫刻というのはそれより遥かに長い伝統を持ちながらも、しかし近代に入って新しい科学技術あるいは数学的な発想、それによって大きく花開いてきた。そういう意味で数学をやっている私から見ると、音楽にしても、絵画・彫刻に関しても、数学に非常に近いものを感じる世界なんですね。そういう長い伝統の中で、あるいは長い伝統の中でごく最近花開いた、活発になった、そういう分野のことを考えるにつけ、それをしかし、遠くのものとして感じている日本人、例えば芸術という活動が何か日常生活とは関係ない、特に華やかな日にふさわしいとか、ものすごい高い値段を払って、そして着飾って出かける、咳払いも許されない、そういう世界のもの日常生活と切り離されたところに芸術がある、とそういうふうに感じている日本人は、何か芸術とちょっと切り離されている。その芸術と切り離されているということは、結局近代の科学や数学とも切り離されている。そういう印象を持つんですね。

 日本における芸術について今までお話ししてきませんでしたけれど、中国、韓国、あるいは日本において、日本は特に日本画という独特の世界、西欧の油絵の具とは違うもので絵を描く、そういう技術を発展させ、高いレベルにまで到達したということは、私達の誇らしいところであります。いわゆる装飾物に関しても、ヨーロッパの歴史あるいはメソポタミアの歴史、古代オリエントの歴史、それらと比べると比較にならないくらい短いとはいえ、やはり非常に高い技術でもって、そのアートの世界を切り開いてきたということは、とても誇らしいことです。日本において、ヨーロッパにおけるような近代絵画あるいは近代音楽、そういう世界が切り拓かれなかったのは、やはり私達が数学的な発想あるいは科学的な発想、そういうものに縁遠かったということと関係しているのではないか、と私は思うんです。もし私達がもう少し数学的な発想あるいは近代科学的な発想というのを早く入手することができていたならば、明治維新のような馬鹿馬鹿しい大騒ぎをすることなしに、ヨーロッパ諸国に匹敵する、あるいはヨーロッパ諸国からより深く尊敬される、そういう文化の国になっていたに違いないのに、と思うとそれはとても残念なことです。私達が持っているそういう文化的な脆弱性というのは、こんにちもあるということが今日のお話のテーマです。

 それは、「私達が長い歴史的なスパンでもって科学や芸術を思想として捉える、あるいは思想に基づいて、あるいは自分の生き方・日常生活に基づいたところで、芸術や科学というものを考える」ということとちょっと縁遠く、「海外で流行っているものを知ると、それを見よう見まねで真似をする。そういう模倣に関して、巧みであった」という歴史的な伝統、それが今でも生きているんではないかと思うんです。昔は、例えば陶磁器なんかにしても、中国や朝鮮から私達は多くのものを学び、場合によってはそこの人々を日本にまで連れてきてしまって、そこでそういう陶磁器の文化を日本的に宣伝させるということに成功した、というふうに言うこともできるかと思いますけれども。一方で最近の私達は例えば、明治以降の日本は西欧列強のものをお金で買ってきてそしてそれを改良する。改良の最たるものは、日本の紡績紡織機関、あるいは自動車産業、あるいは鉄鋼産業、そういうものであったように思います。そういう分野において日本が、アメリカに遥かに後れを取ってた日本が瞬く間に追いつき、やがて追い越すという時代を経て、今や韓国、あるいは中国に追いつき追い越されるという状況に追い込まれているわけです。私達は「単に模倣して、それを改良するという近代日本の伝統」をきちっと総括し、本当に私達でなければできないことをきちっと行い、それを世界に向けて発信する。そういう誇りを持った国民になるべきだと思うんですが。どうも海外の流行をそのまま取り入れて、それを模倣し、それをうまくやってのける。そういうことに日本の伝統文化の日本人らしさ、日本的な強さというのを見ようとしているような気がしてなりません。

 最近でいえば、典型的なのはリサイクルReuseというような言葉、これが言い出されたことは今から約25年くらい前。科学の世界において、Sustainable Development持続可能な発展で、これが重要であるというのは世界中の科学者が集まって言っていた。さらに古くは1960年代、「ローマクラブ」っていうのがありまして、世界の知識人たちが「このままの発展では、人類の文明はいずれ破綻する。我々が享受している文明のあり方それについて、根本的な反省を要する。」というような警鐘を発し、しかしそのまま私達は進んできて、20世紀の終わりぐらいからSustainable Developmentってこと言われだした。ところがなんと2022年とかそのくらいになって、日本ではSDGs Sustainable Development Goals、これがまた新しい流行言葉として、もうありとあらゆる企業がそういうものに乗ろうとしている。Sustainable Development Goals。これをうたい文句にして、それでまたビジネスを展開しようとしてるんではないか。私達は本当にSustainable Developmentっていうのは本当はどういうふうにしなければならないのかということ。私達の毎日の日常生活を反省することから出発しなければならないのに、いろんなものを作って儲けている企業が、それを自分たちの広告として使い始めている。非常に不潔なことだと思いますね。

 最も深刻なのはプラスチックによる大洋汚染ではないかと。多くの人の目に見える汚染としてプラスチックゴミの問題は深刻でありますが、そのプラスチックを大量に使い、大量に消費しているのは私達ですね。特に日本はそういうものの使用率が高いと思います。そして多くのプラスチック製品に、これはプラスチックであるとかペットであるとか、これはリサイクル可能でないとかPPとかですね、PPっていうのはポリプロピレンっていうことですね、PSってのは、ポリスチレン、PEはポリエチレン。こういう「科学的な基本的な組成ごとに分離して集めると再生可能である。もう1回利用することが可能である。」というかのごとく、謳っていますよね。しかし、皆さんは、もし自然科学に多少なりとも関心を持つならば、高分子化合物というのは、どのような過程で作られ、それゆえ、どのようにすればリサイクル可能であるかということ。そしてそのリサイクルのためにどのような費用がかかるかということ。それについてちょっとの知識を身につければ容易にわかることです。紙のように木材から作られる、そういう製品でさえリサイクルの紙、これ最も簡単に作れるリサイクル商品でありますが、実はバージンパルプから作るよりもリサイクルで作った紙の方がよほど価格は高い。ですけど、価格は高いけど森林を守るために、バージンパルプじゃない、リサイクルのパルプを使うという、費用をより多く払ってもそれをやる。こういう考え方、これはありうると思います。しかしながら、プラスチックに関してはリサイクルが極めて困難でありまして、実際には多くのリサイクル可能だというふうに言われているプラスチックゴミが、ほとんどは昔は埋め立てに、今は海外に輸出して、その海外に輸出する際にも様々な不正なルートをたどって開発途上国に輸出して、しかし、開発途上国ももはやゴミの山を抱えているだけで馬鹿馬鹿しいということで、それを燃料にして発電所を動かすということをやっていることの方がよほど効率がいい。それでさえ、実は原油やあるいはそこから作った燃料や液化天然ガスで動かす発電よりもコストがより高くなる。コストがより高くなっても、それをやるんだっていう、北欧のような国では、ある意味でプラスチックが燃料用燃料としてエネルギを生産する、電気を生産するのに役立つということありますけれども、当然電気を作るためにプラスチック製品を燃焼するっていうことは、石炭を燃焼することと同じような、あるいはそれより深刻な問題を抱えているわけであります。そしてそれがより大きなコストをかけなければできないということもわかって欲しいわけですね。

 北欧のような、あるいはドイツのような国では人々の意識がリサイクルに非常に向かっているので、ゴミの分別というのがものすごく徹底していて、私なんか旅行者としていってもちょっとこんなに細かくやるのは叶わんなと思うくらい細かくやってる。それであったとしても、リサイクルが困難であるという現実があり、私達が、私などはスーパーマーケットで買い物をしてきて特に食料品を買ってきたりするとそれを食べた後のプラスチックゴミってのは膨大なもんなんですね。その膨大なプラスチックがみんなリサイクル可能であるかのように書かれているんですけれど、それを分別して出したところで、日本の行政の持っているゴミ処理能力に関しては、それをリサイクルするというような経費をかけるだけの行政に力がない。結果として広い土地を持っている田舎では埋め立てる。広い土地がないところではそれを燃焼する。そういうふうにして処分している実態があるんだということ。それを考えてほしい。日本ほど過剰包装の国はないと思うんですね。しかし、日本から見ればずいぶん簡易包装だなと、こんなちゃっちい包装でっていうふうに思う、感じてしまうような、ヨーロッパ諸国あるいはアメリカなんかでさえ、過剰包装が問題となっております。日本の過剰包装を考えたらもうそれはとんでもないことですね。

 我が国ではお買い物袋、それが有料だというふうになって、リサイクルが進んだって言うふうに言われているんですが、果たしてそうでしょうか。本当にゴミ袋はある意味でプラスチックの袋はとても便利なものですから、どうしても必要なときはそれを買うっていうふうにしているだけであって、実はプラスチック全体のですね、使用率、あるいは生産率、生産量、それは決して減ってないのではないかと思います。私達が本当に昔のように、一升瓶でさえ昔は一升瓶は必ずリサイクル、ビール瓶もリサイクルだったんですけど、今やビール瓶さえリサイクルされない。アルミの缶に入ったビール、私もそれを飲んでおりますが、アルミのようにものすごい電気を使う、しかもボーキサイトというのは高価な資源から作られるアルミも、あんなふうに大量消費でしまって本当にいいのか、私も思いますけど。ビール瓶でさえリサイクルされない時代に、私達が本当にSustainable Development持続可能な発展ということを、地球全体で考えなきゃいけないんだっていうこと。それが私達の日常生活と結びついているということに、やっぱり目を向けないといけないんじゃないか、と思います。私達が使用するエネルギー、それを倹約するという精神は言うまでもなく大切ですが、おそらくこれからさらに進行する電気代の高騰によって、日本人のエネルギー消費は多少は減るんではないかと私は期待しておりますが、馬鹿馬鹿しいイルミネーションそんなものは子供はともかくとして大人も喜んでいると、そういうような日本からもうちょっと本当に必要なところにエネルギーを使うというふうに、文化的な変化を受け入れるような成熟した大人の社会になっていってほしいと願っています。

 そのためには、やはり歴史を知り、自分たち自身の歴史を知り、その歴史を通じて現在の私達の生活を反省する。そのことが大切ではないかと思います。海外の生活に憧れるというのも、若いうちは当然だと思いますけれども、一方で、海外の生活に合わせるというだけでは、私達のような民族はなかなか世界で通用しないという現実に、目覚めてほしいと願っています。

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