今日は若い皆さんにはあまり関心がない話題についてお話しましょう。というのも最近私が子供の頃からとても敬愛している、尊敬に近い感情ですが、倍賞千恵子という俳優さんが、老齢の婦人として映画の主人公として登場する「プラン75」という映画があり、大変感銘を受けてそれを見たということと、たまたまテレビで「人生100年の時代」ですからという威勢の良い発言をするのを聞いて、考えることがちょっとあったからです。
一般に人々は「長生きをするということが無条件に良いことである」と、考える傾向がありますね。確かに小学校にもいかない幼い子供たちが亡くなるのは本当に痛ましいことです。親たちの間でもそのかわいい頃の子供たちの記憶しかない。そのまま二度と会えないというのは切ないものではないかと想像します。しかし、小学校に行ってたらその時に亡くなったならいいか、というと決してそんなことはない。成人前に亡くなるのはいいか、それもそんなことはない。会社に就職して一人前の「社会人」、これは括弧づきで言わなければならない昨今ではありますが、そのような社会人になってから亡くなるのだったら、人生を全うしてるのかというと、そんなことは決してない。就職しても、あるいは結婚しても、あるいはいい年を取って、自分の子供ができるという時代になっても、子供が小さいうちは、親が亡くなるというのは、その子供たちにとってその人生を大きく左右するものですから、決して好ましいことではないでしょうね。
しかしながら、一方でgenerationという言葉は、英語ではgenerateという言葉、生成するという言葉から来ているわけでありまして、次世代を生成するそれまでの期間がgenerationで、一般には30年間ということになっています。人間の場合、30年で一世代が交代するということですね。ですから、60年生きれば、第2世代にバトンを渡すことができる。最近は結婚年齢の高齢化に伴い、generationの期間も長くなっている。しかし他方、40年であるとしても、それを二つ繰り返すのは80年。80年というのはある意味で、それまでになすべきことは全て成し終えている、あるいは成し終えているべき期間ではないかという気もします。私のようにその80年に近くなっても、やり残したことがやたらにたくさんあって、まだまだやらなければいけないと思ってることがあるものの、しかしもし寿命というものがあって、天が私に、もうお前はいいよというふうに言うならば、そのときはそれを受け入れたいと思っています。100歳まで生きたからと言って80歳から100歳までの20年間の間にどれほどのことができるのかということを考えると、少し私自身は悲観的になるわけですね。
もちろん特に画家を中心とする芸術家の中には、本当に高齢になってから立派な作品を残すっていう方がいっぱいいらっしゃいます。私の説では、芸術家の中では画家が一般にとても高齢になってからも大活躍するという人が多い。もちろん必ずしもそうも言えない例もいっぱいあるわけです。しかし、Argerichというピアニストはショパンコンクールで出てきたときには、審査委員長のホロヴィッツが「彼女の演奏はここにいる誰よりも上手い。技術的には誰よりも上だ。」と評したというくらい、華々しいデビューをした方で、その頃は英語ふうにアルゲリッチと言うふうに発音されることが多かったんですが、今は彼女の国の言葉に従ってアルへリッチというふうに呼ばれることが多いですね。Argerich(1941年生まれ)はもう高齢になって髪の毛も真っ白になっているんですが、決してその高齢になっている姿を隠すことなく、そのまま舞台に出て、しかもますます円熟した境地にあるピアノ演奏をしてくれて、さらにそれを無料動画 https://youtu.be/ivDRgJqlrB0 として公開するという運動に対して、前に私がお話したイツァーク・パールマンとか、あるいはミッシャ・マイスキーとかいう、本当に一流の演奏家の中で、できればこの本当に一流の演奏家の前にピアニストのグレン・グールドを入れてほしいのですけれど、ともかくそういう世界の宝というような人々が、素晴らしい演奏をいわば次世代へのメッセージとして残してくれています。おそらく多くの演奏家・芸術家が、自分が到達した世界を人類のために残してくれているということだと思います。自分たちの到達した地平、それがもはや技術的にはこのレベルを維持することができない、そういう年になるかもしれないということを意識して最高齢演奏家というような名誉ではなく、自分の到達した芸術的な思考のレベル、それを歴史に残したいと思っているに違いないと思うんです。ある意味で、何歳で寿命を終えるとしても、その人の人生において最高点に達する、あるいは達したというふうに考えることができる時まで生きるならば、人生は最高だと私は思います。
「1日でも1秒でも一瞬でも長く生きる。」ということが無条件に良いことではない。それは明らかな事実であるのに、最近の日本ではそのことに触れることさえあまり許されていない。そういう風潮の中で倍賞千恵子さんの「プラン75」は、私にとって非常に重い映画であったわけです。その映画の中で、制作者が伝えようとしているメッセージは、簡単な言語で語ることのできない重みを持っていて、もしメッセージとしてあえて語るとすれば、人間が自分の人生の終わりを人間的な尊厳をもって終わらせる。いわゆる安楽死、ヨーロッパの特にプロテスタントの多い国々で認められているその制度。これは日本では法的にありえない制度なのですけれど、それについて「もしありうるとしたら、その時に人間は何を考えるだろうか」という問題だと思います。言い換えれば「尊厳ある死とは一体何か」ということであり、それは言い換えれば「尊厳ある人生とは何か」という問題であるということです。
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