最近では多くの技術が目覚ましく発展している様子、「これが技術に関する素人でも、それを実感するほど、加速的にスピードを増して技術の進歩が続いている」というのを、日常生活に近い分野で実感している人が多いと思います。とりわけインターネットに関連するデジタルテクノロジーの発達によって、それまでは大変に難しいプログラミングあるいは大変に難しい物理理論、それがわかっていないとどうしようもなかったという世界において、通信スピードの発達、また大容量の情報管理のスピードアップ、それが可能にした新しい世界が切り開かれていますね。こういうことを便利な世の中になった、便利な世の中になったというふうに、人がやったことをさも自分の日常生活がより豊かになったことと、直接結合させてはしゃぐように喜ぶ傾向が、特に私たち日本人の中には強いのではないかと、時々頼もしくもあり、また不安にも感じることがあります。
私自身は、バーチャルリアリティかつてはVRって言葉が一般的でした。最近はそれをもっと大げさにメタバースというような表現、これでそれをビジネスに直結させるというようなものまで出てきています。しかしそういう表面的な技術革新よりも、やはりよりすごいのはいわゆる人工知能というのを用いることによって、いろいろなものが大変に簡単に操作できるようになっているということ、これは大きいですね。皆さんの中で人工知能という言葉はあんまりふさわしくないと感じている人も多いかもしれませんが、皆さんがいわゆるブラウザ、例えばMicrosoftであればエッジであるとか、Macintoshで言えばサファリ、Googleの世界で言えばクローム、こういうブラウザを通じていろいろな情報を検索することが容易になっているということは、画期的でありまして、特にその際に非常に良い情報を検索してくれる。ここで使われているのは、線形代数という数学の応用である有名な定理なんですけれども、わかりやすい言葉にちょっとダウンサイジングして言えば、固有値問題の応用といってもいいわけでありますが、それを通じてすぐに利用できそうな有用な情報がすぐに見つかる。
私などは資料が非常に低下しているので、最近は音声に頼って入力することがありますが、人間の自然言語、私達の日常用語ですが、それをコンピュータが聞き取り、解析して、文字に直す。これは自然言語解析と言われ、この数十年間ずっと研究されてきた分野の一つでありましたが、それが驚くべき速度で実用化を実現しています。これも大変に素晴らしいことであるわけで、私のこの日々のメッセージも、皆さんにこのように簡単にお届けできるのは、まさに人工知能によるところ、そしてその人工知能の足りない部分を補ってくれる事務局長のお世話によるものなのですが、ともかく便利な世の中になっているとみんな言うわけですね。私もそれは実感します。
しかしながら、便利な世の中になっている分だけ住みづらい世の中になっていることも確かでありまして、私は個人的にはコンピュータテクノロジーのようなものは好きな方ですので、どんどんどんどん便利な世の中になっていってほしいと願う側の人間の一人であることは間違いありませんけれど、コンピュータテクノロジーの発達によって、最も簡単になったのは何かというと、情報の保存・複製そして伝達の容易さであります。これをもっとわかりやすい言葉で言えば、コピーアンドペースト。情報を複写して同じものを作り出す。若い人はそれをコピペというそうですが、そういうコピーアンドペーストというのは全く創造的な仕事ではありませんから、人間がそのようなことに時間を割かなくてはならないのは、本当は限られた人生の時間を考えればあまり良いこととは言えない。しかし、コピーアンドペーストという機能によって、いわば私達が普通には到達することのできなかったような非常に高品質の情報に、容易に触れることができるようになったことは、間違いなく素晴らしいことです。
そのような情報に触れるということと、最近流行りのチャットボットのようなもので、人間が書いたかのような、人間が創造したかのような、そういう文章を機械が作れるということ。それに感動している人もいますが、私自身はそんなものは人間のエセ文化、あるいは人間が自分たちで文化と思っていたことのエセ性、それを明らかにした。本当に高品質の文化と低俗な文化とに、分解することができるのだと。高尚なふりをしていた文化の中に、極めて低俗な機械的なものがたくさん存在していた。しかし、そういう低俗なものを超えて、本当に高尚さ、人間の高尚さというのを感じずにはいられないような高い文化、それがいわば一種のコピーアンドペーストによって簡単に実現できるようになっているということは、私自身はものすごく素晴らしいことだと思います。
私自身の場合で言えば、学術的な情報が、主として18世紀以降のものが、ヨーロッパの図書館に行って1週間以上かけて探し出さなければならなかったものが、インターネットでちゃちゃっと検索する。そのことによって、日本にいながらにして、それにアクセスすることができるようになったということは、私の人生全体で、実は自分の人生の前半は無駄に使ってきた、あるいは三分の二、四分の三と言ってもいいかもしれません、それはずいぶん非効率な使い方をしてきたというふうに、思わざるを得ないほど素晴らしいものですが、そのような学術的な世界以外に、実は本当に多くの人間の文化的な行為が様々に発信されている。その中で私自身は、一昔前はインターネットの無料の動画サイトというのは実にくだらない情報にありふれていて、日本人の大人が幼稚園か、それ以下の子供になってしまったのではないかとさえ思っておりましたが、実はそういうおもしろ動画ではなくて、本格的な芸術性のある文化情報、それがインターネットで、無料で手に入る。こういう形で展開されているわけですね。
具体的なビジネスの名称を言うのはちょっとはばかられますが、最も影響力の大きいものとしてここではあえてGoogle社が提供している、あるいはGoogle社が買収したYouTubeというビジネスについてお話させてください。私はYouTubeがスタートしたときには便利であるけれども、つまらないと思って、あまり見ていませんでした。しかしながら、最近、YouTubeが、広告宣伝が非常に増えて不愉快な宣伝がもう本当に巷にあふれている。人々の心の弱みにつけこむような、本当に公共広告機構であったならば絶対に禁止するに違いない、そういう危ない広告にあふれた社会でありますけれども、そういう広告を全部カットして有料会員になってくれれば、カットする。そういう会社の姿勢。それに私はある意味で賛同しながらも、あまりにも商売の仕方が露骨なので、それに反発してYouTubeの広告をカットするアプリケーション、これを使ってYouTubeの素晴らしい芸術的な動画、これを楽しんでいます。例えば、オペラであるとか、バレーであるとか、クラシック音楽の演奏会であるとか、あるいは国外に行くと本当に頻繁にあるのですが、日常的な生活の中に密着した芸術活動ですね。本当に大きなグラウンドのようなところで催されるちょっと大衆的なコンサート。これが素晴らしいんですけれど、そういうものを楽しんでいます。音楽で言えば私が尊敬してやまない、イツァーク・パールマン。彼の本当に心に沁みる演奏が、パールマンの意向もあるのでしょうが、いわば公的に録画されて録音されて、それもかなり高品質の音と映像でもうお茶の間で見ることができる。これはやはり素晴らしいことだと思います。
かつてGoogle社は、「人類の知的な遺産ともいうべき全ての書籍を電子化して、全世界の無料の図書館を作る」という構想をぶち上げましたけれども、多くの国で著作権協会などの反対にあって、現代の書籍に関しては、特に日本ではほとんどがGoogle社のドキュメントとしてはフリーのものとして公開されてはおりませんけれども、海外のものに関しては本来最も高い著作権を払わなければいけないようなものに対して、このようなサービスが展開されていることは、もしかすると私と同じようなお年寄りの方はご存知ないのではないかと思います。技術に不慣れなうちは不愉快な広告を我慢して聞くより仕方がないと思いますが、お子さんや学生さん若い人がいれば、その広告を削除する、そういうための道具を皆さんの環境に用意してくれると思います。
「伽藍とバザール」という有名なインターネットの今後を描いた書籍が昔出たのですが、大きな大聖堂というか Cathedralこれを伽藍と訳したわけでありますけれど、文化が伽藍から発信されていたという時代から、日常的な食料品などを買うバザーあるいはバザールへと移行していく。そういう予言の書でありました。まさにバザーで入手することができるような手軽さで、しかしながら、人類史の永遠に語り継ぐべき傑作と言うべきものが、コピーペーストというか手元で本当にコピーするということを意識することもなく、再現できている。これは現在の技術の発達の本当に大きな恩恵だと思います。この恩恵に浴さない手はないと思うのですが、もしご存知ない方がいらっしゃったらぜひ試してみてください。もちろんそういう映像や音楽を有料で流すというサービスもいっぱい成立しています。そういう商業サービスの中には、一部無料一部は有料、そういうふうにして、ビジネスを設計してるんだと思いますが、そのような個々の会社がやっているものよりも、遥かにスケールが大きいグローバルな情報の知識、これにアクセスすることができるということが、現代を生きる私達にとってどんなにしょうもない現代であっても、やはり人間文化も捨てたものではないと、思わせてくれる良い一面です。ぜひご経験ください。こんなことは若い人は当然知っているということかもしれません。そうであったならば、失礼をいたします。
コメント