今回は、海外の学校ではその学校における教育の大きな理念の柱として掲げられることが多いのに、日本の学校ではあまり強調されない教育理念、すなわちcritical thinking(クリティカルシンキング)批判的思考、ということについてちょっと角度を変えてお話してみたいと思います。日本の学校で批判的思考というものがあまり大切にされていないのは、そもそも「批判」という言葉、これに対して多くの人が拒絶感に近い拒否反応を持っているからではないかと思うんです。「批判」というのは「人を非難することである。あるいは自分を偉そうに振る舞うことである」というふうに理解している人が、それは理解というより本当は誤解というべきなのですが、そういう人が少なくないのではないでしょうか?
日本語の「批判」という言葉には、何か非難に近い、人を否定的になじる、そういうニュアンスが込められているように思います。それは、本来は完全な誤解というべきでありまして、「批判」というのは決して非難するという意味ではない。むしろそのある意見を批判するというときに、その意見の持っている鋭さ、その良さ、それを認めつつ、他方で、その意見の限界をも指摘する。「限界を指摘する」という意味では否定的に捉えるということにもなりますけれども、しかし自分自身の中にない発想がその意見の中にある、ということをきちっと見出すこと。批評というのは独創的な小説を書くという創造性と並んで重要な、いわば合理的な精神と言うべきです。創造的な精神というのは必ずしも合理性だけによって成り立っているわけではない。不合理なもの、あるいは非合理なもの、そういうものを衝動、あるいはきっかけとして偉大な創造、イマジネーションの想像ではなくて、クリエイションの意味での創造ですが、なされることは決して稀ではない。
しかしながら、創造的な意見あるいは創造的な作品ができたからといって、それが全て人間精神の偉大さの証明になっているわけでは決してなくて、そこには限界がつきまとう。限界の中には、もちろん論理的な飛躍という間違いもあれば、論理的な誤謬という誤りもあるでしょう。あるいは、歴史的な視点の欠落という点で、自分の時代認識を厳しく見つめていないという批評もありうると思います。反対に時代精神を先取りしているというような批評もあると思います。「批判」というのはある意味でいろいろな意見をそのまま受け取らずに、全てできるだけ相対化する。そして、相対化した上で、その意見の良さ、素晴らしさ、創造性、そしてまた限界、論理的な欠点あるいは歴史的な認識の欠落、それを指摘するということであるわけですね。
そういう意味で、批判は決して他人に向かうだけではなく、しばしば自分自身に向かうわけです。批判をする人間が、「自分を棚に上げて他の人の意見を低く見る」というような批評に徹するとすれば、それは一流の批評家とは言えないでしょうね。批評は何をおいても、まず自らに向かうべきであるからです。自らが厳しい論理的批判にさらし、自らをさらし、そして自らの中でその批判から出た意見、それを外に出す向けて発信する。そういう行為の繰り返しを通して初めて説得力のある批評、あるいは批判が可能になるわけでありまして、「決して批判というのは他人に対して向けられるだけではない」という点、これがまず第一に大切です。
そして、この批判に対する誤解に関連して、批判する人間を偉そうな奴だというふうに単純化して評価する。これも誠に貧困なことでありまして、批判が批判として意味を持っていないということをこそ批判すべきであって、「批判が偉そうである。だからその批判は正しくない」というのは、批判に対する正しい批判とは言えないですね。批判に対する批判というのは、私が尊敬する哲学者であり社会思想家である人が言うように、まさに自らに向かい、そしてそれを厳しさゆえに他者にも向かうわけで、それを受けた他者はものすごく最初はカチンとくるに違いない。そういう厳しい批判がときにありますけれども、その厳しい批判こそが大事なんであって、その厳しい批判をする人が偉そうにしているというふうに言った途端に、いわば人と人とのコミュニケーションの道が断たれてしまう。それくらい決定的にまずいことではないかと。それは批判の意味を知らない、批判に対するひがみであると私は思うんです。
最近、大学教授が巻き込まれる刑事事件が起こり、その刑事事件を起こしてしまった人の過去の日記か何かに、「大学教授という職業の人は偉そうに振る舞う資格はない」というようなことが書いてあったんだそうです。大学教授が偉そうにすべきでないという結論自身には、私は100パーセント賛成するものでありますけれども、そもそも偉そうにするか、偉そうにしないか、これは人間としての価値を決める一番大事なポイントの一つではあるけれど、本当に大切なことはその職業人であるならば、その職業としてふさわしい仕事をしているかどうかであって、偉そうに振舞ってるかどうかではないと私は思います。大体大したことをしてないくせに偉そうに振舞ってる。それは、恥ずかしいことであって、非難するに値しない。人間としての最低の屑というやつですね。そもそも相手にする必要がない。そういう連中だということに過ぎないと思うんです。
偉そうな意見の中に、傾聴に値する意見があったならば、それを拾い出して、きちっと聞き分けるという「聞く力」というのがとても大切で、最近、我が国の外国語教育ではどうも「話す力」というのは強調される傾向がある。一部の企業なんかではプレゼンテーション能力が大切であるなどという広報担当者がいると聞きます。しかし、グローバルな世界で戦っていくであろう戦士、それはアカデミックな戦士もあれば、ビジネス戦士もあると思うんです。いろんな意味でグローバルなフィールドで戦っていかなければならないファイターたちに、私がぜひこれが必要だというふうに思うのは、「話す力」でも「プレゼンテーションする力」でもない。むしろ、「聞く力」「理解する力」であると思う。そして、相手の言うことをよく聞き、よく理解して、その上で、それを自分なりの言葉にして表現し直す。それがときには批判というものに繋がるんだと思うんです。「批判と非難は全く意味が違う」ということ。それを忘れないようにいたしましょう。
少なくとも海外の学校では、critical thinkingというのが小・中学校の教育目標でさえそれが唱えられるくらい大切なことで、「先生の言葉をそのまま静かに聞きなさい。」あるいは「黒板をそのまま写しなさい。」最近の日本の学校では、「黒板に赤で括ったものはノートにも赤線で括りなさい。」こんなノートの取り方まで指導する先生がいるという話を聞いたことがありますけれども、もしそうであればそれは恐ろしいことで、それは教育ではない。それは完全に「調教」というべきであって、自動車教習所だったらばそれでいいかもしれませんが、学校教育ではそんなことは絶対に許されないと思うんですね。学校教育の目標はいろいろあると思いますが、そのうちの一つに海外で言われるcritical thinking、批判的な思考を育てる。これがその大事な目標の一つであるということは確かでありますね。もちろん批判的思考というだけでは前に前進しないわけで、前に前進するためには「基本的な思考、それを乗り越えて新しいものを作り出す、そういう力」、これがとても大切だと思いますが、小学校の低学年の段階からそういうクリエイティブな力を育てるというのは、下手をすると本当に鍛えるべき基礎力をないがしろにするということになりかねませんので、私は学年が進行しないうちはあまりこれは強調しない方がいいかなと感じてはおります。
しかし、私が習った小学生時代、小学校一年生・二年生・三年生・四年生、それを教えてくれた先生は、私達に批判的な思考と同時に物を新しく作り出す力、創造的な力というもの楽しさを体験的に教えてくれたように思います。批判なんていう言葉も教えてもらったとは思いません。まして創造的な思考という言葉も教えてもらいません。しかし、そのようなことが大切だということを、体感的に教えてくださったんですね。素晴らしい先生に習えたことを、私は自分の幸運であるとともに、本当に幸せなことであって、後世に続く若い人々にぜひ伝えていきたい。そしてそういう文化がなくならないでいてほしいと願っています。私が今日このお話をしたのは、「批判」ということに対して日本人がおしなべて弱いという傾向を感じたからでした。
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