長岡亮介のよもやま話48「EducationとInstruction」

 我が国で見慣れた日常的な風景と、海外、私の場合は特に強く感じたのはドイツとイギリス、いわゆるUnited Kingdom連合王国においてでありますけれども、犬と人間との関係が決定的に違う。日本では犬が飼い主をグイグイ引っ張って歩くという様がごく当たり前でありまして、私も子供の頃親戚の人が大型犬のコリーを飼っていて、そのコリーにぐんぐんと引っ張られて歩く。それが楽しくて仕方がありませんでした。しかし、海外では犬が人間を引っ張って歩くっていう風景はむしろ例外的であり、それが大変に新鮮でありましたので、海外の友人に、日本では犬は飼い主を、リードって言いますが、本当はペットをリードするための糸、綱、それを引っ張って歩くのが一般的なんだけれども、こちらの犬は人の横にピタッとついて歩く。やっぱり人種の違いと同じように、あるいはそれ以上に犬も地域によってずいぶん文化が違うんだね、そういうふうに尋ねたことがあります。

 そうしたときに、私の知人たちの答えは一様に、日本の犬たちはきちっとした教育を受けていない。犬の場合には生まれてから3ヶ月間くらい赤ちゃんの一番かわいい時期ですが、その時期に一生を生きるために必要なトレーニングをプロのトレーナーを通して、自分でできる人はご自分できちっと訓練をするんだ。人間が教育を必要とすると同じように、ペットも教育が必要なんだってという話を聞いたときに、とってもびっくりしました。私自身犬を小さな子犬を飼ったことありますけれども、躾るというよりは一緒に遊ぶというだけで、楽しい思い出はありますけれども、犬に芸をさせて面白がってるっていうこともありましたけれども、基本的には犬を教育するという観点で、犬に接したことは一度もありませんでした。海外の友人に言わせると、犬に教育が必要なのは人間に教育が必要なのと同じである。犬はトレーニングを通じて、あるいは教育を通じて本当に人間の良い友達になるんだという話をしてくれたときに、そうか犬も教育なんだというのはですね、私は大変深く心に染み入りました。

 実際、人間においてもそうですが、非常に大切な教育に向いた期間を過ぎた後で勉強するということを、いくら一生懸命やろうとしてもなかなか身につきませんね。昔は本当に一瞬で覚えることができたはずなのにと思うのですが、今は何日かけても覚えない、そういう自分自身の姿を見て本当にがっかりします。しかし、それがなんと私達人間の問題ではなくて、犬や猫でさえそうであると、ペットもそうなんだということを聞いて、英語なんかでは教育というのを普通はTeachingというふうに言います。Teachingというのは一般的な言い方で、Educationという、より良い言葉があります。Educationと並んでTeachingの中には、instructionという言葉があります。Teachingという言葉は広い概念でありますけど、そのEducationとInstructionという二つの側面が教育の中には入っているということについて、今日はお話したいわけです。

 犬や子供の躾というのは、言ってみればInstructionであって、Educationではないということですね。Educationというのはある意味で非常に高級なことで、犬などのペットに対して、Educationをするというのはなかなか容易でないと思います。なぜかというと、Educationというのは教育という日本語の言葉に含まれていない非常に大切な元々の意味、原義って言いますね、元々の意味として、引っ張り出すeducare(エデュカーレ)というギリシャ語がありますが、引っ張り出す。何を引っ張り出すのかと。それは一人一人の子供たちの中に眠っている見えない可能性、本人も自覚してない、場合によっては親も理解していない、周囲の人も理解してない、そういう眠っている可能性を引っ張り出すこと。educare(エデュカーレ)すること、それをEducationというわけです。それに対してInstructionというのは、言ってみれば軍事教練のようなものでありまして、ある決まった知識をきちっと身につけているかどうかということ。それを繰り返し繰り返しの反復練習で叩き込む。言ってみればペットの調教に似たところがあるわけです。

人間においても、軍隊における下士官の教育のように、Instructionが大きな部分を占めるという教育も存在しないわけではありませんけれども、人間に対する教育において本当に大切なことはEducation、すなわちその子供たち一人一人の中に眠っている見えない可能性、それを先生が一緒になって引っ張り出すこと、発見することですね。小学校・中学校・高校・大学・大学院そしてその後の社会人教育と、教育には様々なレベルがありますけれども、特に小学校レベルの教育において最も大切なのは、まさにそのEducationが一番大きな一部分を占めるからです。学年が進行するにつれて言ってみれば知識の教育というようなことが中心になってくるということがあります。数学では大学院であっても、決してInstructionというのはどうでもいいという感じで、ずっといくわけですが、教科によってあるいは専門分野においては、最終段階に近くなるほどInstructionの占める割合が大きくなってくる、そういう分野があることは事実です。

 しかしながら、いかなる専門分野にも分化していない小学校、特に低学年の児童に対する教育において、本当に理想的なのは児童本人も気づいていない、児童の保護者たちも気づいていない、そういう子供たちの持っている可能性、可能性の中にはもちろん肯定的な可能性もあれば否定的な可能性もあるでしょうけど、その全ての可能性を視野に入れて、その子の持っている肯定的な可能性あるいは積極的な可能性、それをしっかりと見つめ、やがてそれが芽吹くの待ってやる準備をする。それが小学校教育の一番大事な点だと思うんです。

 よく非常に平板な言葉で教育は語られることが多くて、知育・徳育なんていう表現が昔からありました。知識の教育・人徳の教育ということですね。私は知識と人徳というのを二つに分けることからして、そもそも不潔ったらしく、しかも深みがない。そういうふうに思っているんです。知識を身につけるということと、人徳を磨くということは、車の両輪に例える方がいいくらい、不可欠に結びついているわけでありまして、知育と徳育と、こういうふうに分類した途端に不潔たらしいというふうに私は思います。それよりもむしろEducationという言葉の持っている元々の意味、それを大切にしたいと私います。

 海外では、最近は教育というふうに言うとどうしてもInstructionが中心になりがちだということが、海外の教育水準ではありがちでありますので、Teachingの代わりにLearningという言葉、学習という言葉を、それを教育の中心に置くという風潮が、初等教育・中等教育レベルでは中心であります。確かに、Learningというのは非常に広い言葉でありまして、英語のLearningという名詞の元々の動詞Learn、それの過去分詞形のLearned、これは形容詞として使われてるときには、学習すべきものを全て身につけたという意味で、学識あるというようなニュアンスで使うこともある大切な言葉でありますけれども、学習はLearn、自ら学ぶということ。それを強調するというのは、ある意味で学び方を理解した人に対して初めて言えることであって、学び方自身がわかってない、自分自身がわかってないそういう少年少女に対しては、「学ぶ」とはどういうことかということを教えなければいけない。その際にそれを単なる知識教育で済ますことはできるはずがないので、そもそも「学ぶというどういうことか」ということは、子供たちの中に眠っている、目に見えない可能性、それに対して目覚めさせてやるということ。つまり、教育とか学習というのはある意味で覚醒、awakeningという言葉を使うのが私は一番ぴったりしてるんだと思いますけれど、子供たちの中に眠っている学びへの前向きの姿勢、それに気づかせてやるということですね。口で言うのは簡単ですが、実際的な場面で、具体的な場面でそれを実践していくというのは、やはり容易なことではありません。

 そして、それができる先生が本当に素晴らしい先生、いわば中国語の言葉を借りれば、「師」ということですね。中国では老師というふうに言いますが、老師って年取った師匠というのは先生という意味でありまして、尊敬を込めた言葉です。Lǎoshī(ラオツー)とかっていうふうに言うんですが、そういう本当の意味での人生の師というのに出会える人は、残念ながら人口の

コメント

タイトルとURLをコピーしました