長岡亮介のよもやま話44*数学を勉強する4「数学と寛容性」

 このところ数回、数学を学習する意味は近代科学の先端的な知見を自分のものとするためという以外のところで、いかなる意味を持ちうるか、そして持ち得ないかというような話をしてまいりました。最後の方では数学を学ぶことによって、「自分自身の言葉遣いに敏感になることができる。人の言葉をよく聞くようになることができる。そのことを通じて、自分と異なる他者の考え、あるいは他者の文化あるいは異なる文化、異文化をしっかりと理解しなくてはいけないということが明確にわかる。」ということを述べてきました。そして、そのことによって、私達は真の意味での寛容性toleranceを身につけることができるというふうに言いました。そのように申しましたけれど、「数学と寛容性という、ちょっと普通の人には相反する二つのように見えていることが、実は調和してるんだ」という私の主張は、なぜその二つが正反対のように思われがちであるか、ということについての説明が不足していたように思います。そこで今回は、数学と他者への寛容性とを繋ぐ、いわば論理の架け橋として欠落していた部分を補いたいと思います。

 「数学が他の科学あるいは他の学問と大きく違うのは、自分の言葉、他者の言葉、それを精密にあるいは緻密に使うこと。それに神経を使うという点にあるのではないか。」という点に関しては、今まで申し上げてきた通りなのですが、「自分の言葉を緻密に使う、他者の言葉を緻密に理解しようとする。」ということの中には、当然のことながら、「自分の言葉遣いが緻密でないということに対して、常に厳しく批判的な精神で接しなければいけない。あるいは他者の言葉を理解するときに、その理解が緻密であるかどうかということについて、常に厳密でなければならない。」という言い方、聞き方についての倫理感というのが必須でありますね。このことは「自分にも厳しくなければならないし、他人に対しても厳しくなければならない。」と表現することもできるわけです。大事なことは、他人に対して厳しいくしなければいけないというのは、他者の立場を理解する自分自身に対して厳しくなければならない。そして他者が自分の意見を言うときに、その言葉をできるだけ精密化するように自分自身も努めなければならないことを含むわけですね。

 他者が、自分以外の人がその人の主張をするときに、その主張を展開する議論の中で、自分から見て論理的に十分納得できるものでない、言い換えれば論理的な飛躍がある、あるいは言葉遣いに曖昧なところがあるといった場合には、それを指摘する。ということは、理解を精密に組み立てる上で必須のステップになるわけです。そしてそのことを指摘したときにひょっとすると相手は怒るかもしれない。言い方によっては相手に対して失礼な言い方になるかもしれないからですね。しかし、相手に対して失礼になる、あるいは相手を失礼に扱う、ぞんざいに扱うということが目的ではなくて、自分を理解しようとしてくれて一生懸命頑張っているんだということが相手に伝わるならば、相手の言葉に対してそれが正しくないということを指摘することは、本当は失礼なことではないわけです。数学者は私も含めてしばしばぶきっちょでありますから、相手の論理的な欠点を指摘するときに、相手がそんな言い方をするなんて失礼じゃないか、というふうに感じるような単純素朴な表現を使ってしまうことがあるかもしれません。

 しかし、それはそういうことがありうるということであって、単純素朴に表現するということが目的ではないんです。本当はもっと丁寧に誤解の余地がないように、精密に指摘すべきなんですね。相手の言葉の中にあるいは相手の表現の中に不完全なものがある。それを指摘して、それを指摘することが相手にとって失礼なことではないんだということが、みんなが理解し共有できるという雰囲気の中で行うことができる。これが最も望ましいことではないかと思いますが、人間のやることですから、全て常に完全にというわけにはいきません。しかし、大切なことは、やはり例え失礼と受け取られたとしても、指摘しなければいけないことを指摘しなければ、相手を理解することへと自分自身を導くことができないということを、「言葉使いを精密に使う。精密にするということが大切である。」ということを学んでいる人だったならば、納得できるはずだと思います。

 それを我が国の文化で伝統的な「まアまアまア、それはいいじゃないですか、ここは」というような言い方で、いい加減にごまかしてしまう。良い加減というのはまさに良い加減であって、いい加減っていうのは良い加減じゃないんですね。デタラメだということです。そういう論理的な曖昧さ、あるいは厳しく言えば、論理的なデタラメさ、それを残した上で相互理解が真に前進するとは私は思いません。言い換えると、相互理解を前進させるために、自分自身に厳しくなければいけないのは当然ですが、相手に対しても、ときに厳しく映るであろう意見を言わなければいけないということです。相手を非難するとか、低く見るとか、そういうことではない。

 そもそも上下関係というのを考えることの方がいい加減なことでありまして、数学的な態度というのは、社会的な上下関係のようなものを人間同士の間に持ち込むべきではないという考え方ですね。数学的にはみんなが平等である。そして、「より深く考える。より精密に考える。」このことこそが大切だという、そういう理念をお互いに共有しているというのが、数学的な世界の最大の良さだと思うんです。

 私はこの間こういう話をずいぶんいろいろな角度から強調してきましたけれども、それはこの考え方がほとんど理解されていないまま、数学に対して、「素晴らしい」というふうに一方的に褒め称えたり、「つまらない、冷たい」というふうに一方的に切り捨ててしまったりしている傾向が、私から見れば残念な傾向が、特に我が国には強いのではないかと思うんです。こんな注意を申し添えたくて、このメッセージを作りました。

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