長岡亮介のよもやま話42*数学を勉強する2「精密に言葉を使う」

 前回は数学を勉強することの意義として、理学系あるいは数物系に進むような人々、また経済学系あるいは統計学系、データサイエンス系に進む、そういう人々にとっては高校までの数学をしっかりと理解していることが、その先に進むための前提条件であるから、数学の学習の必要性は言うまでもないことだが、そのような専攻に進むことを志望してない人、特に多くの人々にとって数学に全く関係ないと思われている分野、例えば古典文学の世界とか、古代ローマギリシャの思想とか哲学とか、そういうことに興味を抱いている人々。そういう人々が高校時代までの数学を勉強することにどんな意味があるのか、ということについて私なりのお話をしたのですが、いささか技術的な話に入り込んでしまったので、今回はその技術的な話を一切無視して、もっと端的に数学を学ぶことの意味、あるいは意義についてお話してみたいと思います。

 それは第一にいろいろな文献を読むにせよ、自分の論文を書くにせよ、その他人の書いた論文を正確にその真意を読み取り、自分の書く論文を他の人に対して十分説得力のあるものとして論文を構成する。そのためには、「言葉に対して敏感であること」が何より大切ではないかと思います。言語を専門とする人にとっては言うまでもないことですが、それは例えばお医者さんになる人、あるいは日本のこれからの農林畜産業を考える、そういう職業に就く人々にとっても、自分の使う言葉が相手に対してどのような意味を持つのか。あるいはどのような誤解の余地があるのか。ということについて、しっかりと理解することは必須のことでありましょう。

 それはまさに「精密に言葉を使う」ということであり、言葉を使うということは少し難しい表現をすれば「抽象的な概念化とその具体的な例証を通じて論考を組み立てる、あるいは思索を組み立てる」ということです。そのための準備となる勉強は、小学校以来の全ての教科でなされているはずなのですが、実際のところ、言葉を精密に扱うということを意識的に行わなければならない科目は、おそらく高校以下では数学だけと言ってもいいくらいではないか、と私は考えています。本来は英語や国語や社会科、あるいは理科においても、概念や言葉、それを正確に扱うという練習をしてほしいと思うのですが、残念ながらそのような練習に力点が置かれることはありません。

 数学においても必ずしもそのようなことに力点が置かれることなく、数学では公式に従って答えを導く、そのことをマスターすれば良いと誤解されていたり、数学は問題の解き方をマスターすることなんだと誤解されていたり。数学の本当の大切なところ、つまり「言葉を精密に抽象的に、ときにそれを具体的に使いこなす」ということは、数学ほど意識的にそれを行わなければならない科目は、少ないと言っていいのではないかと思います。

 「言葉を正しく使うこと」これは簡単そうに見えて、実は意外に難しいことです。私は決して英語は得意なわけではありませんが、ネイティブのようにペラペラと喋る人の言葉遣いが、実は私のようにとつとつと英語を喋る人間の英語よりも、相手がきちっとした人であれば、違いを精密に聞き分けてもらえるということを、海外の学会などの経験を通じて学びました。大切なのは、「精密に語り、また精密に理解する」ということで、私はそれを英語で学んだのではなく、数学で学んだのだと自分で思いました。あまりにもとつとつとした私の英語を見るに見かねて、通訳の人が、私が「言いたいことはきっとこういうことだ」というふうに英語でペラペラと喋ってくれたときに、相手の偉い学者がその通訳に向かって黙れというふうに発言したことを、本当に昨日のことのように鮮明に覚えています。私は決して流暢な英語を喋れるわけではありませんが、やはり精密な思索の結果を、とつとつとした表現ではあれ、英語で表現できていたということに、いささかの驚きとささやかな誇りを感じたものです。数学の学習にはそのようなあまり普段言われていない大切な意味があるということを、今日お話として追加したいと思ってこれをお話いたしました。

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