私の近くにいる人から非常に素朴な質問を受けたので、考えてみるとそういうことを考えたこともない人も日本にはたくさんいるかもしれないと思いまして、ちょっと常識的な話題ではありますけれども、「社会における秩序というものが何によって保たれるのか」という根本的な問題を、原理的に考えてみたいと思います。私達人間は他の動物と違って、自分たちの種の繁栄というだけではなく、自分たちの同胞の繁栄・平和、それを大切にするという道徳が、全世界的な国民の間で共有されていると、素朴に信じています。「他の動物と違って」と私は申しましたが、実は動物学的に言うと、人類は一つの種というべきで、人間とチンパンジーとの間にある遺伝子の違いのような巨大な違い、その巨大な違いと言っても99%は一致してるとかっていう話もありますけれども、そういうような巨大な違いはない。
人間として普通ホモサピエンスという言い方が一般的でありますが、それとして「同一の種である」という理解が生物学的には常識となっており、最近ではそのホモサピエンスと言われているものも、実はホモサピエンスとしての純血種ではなく、「ネアンデルタール人の遺伝子が一部混じっている」ということも、最近のDNA解析わかってきているという状況だと聞いておりますけれども、しかしともかく人間同士、平和にお互いの生存を尊重して、平和に生きていくというのは当たり前のことではないかと。その間で戦争のような醜いこと、それがあるのは昔の時代であって、「21世紀の今日にあって、戦争のような非人道的な行為が許されるはずがないのに、なぜそれがいまだに続けられるのか」ということについての質問でありました。
当然、私達が道徳あるいは宗教心と言ってもいいかもしれません、それが私達の行動を律する最上位のものとして、絶対確実な、絶対不可侵の、侵すことのできない権威としてそういう道徳感があるとすれば、確かにその通りかもしれませんが、私達はときに適当な、この適当なというのは現在の若者が言うような意味での適当であって、いい加減なという意味で、適切なという意味ではなくて、自分勝手な口実、それを理由に時には非人道的な殺人とか、あるいは詐欺とか、そういう人間として最も恥ずかしい行為を堂々と行う、そういう恐ろしい側面を持っているわけですね。
人間は残念ながら、道徳律というものが最上位に存在する、そういう動物ではないですね。それよりももっと低位の、低い位置に属するそういう一種のセルフィッシュ自己中心的な、あるいは利己主義的な行動原理が上位にくるということが時にある。めったにないという意味で、時にあると言ったんではなく、そういうことが存在するということを申し上げたいだけです。私達はそういう不道徳なこと、それがまかり通ることは許されないことだと普段は思っていますけど、その非常事態になってくるとそういう常識が通用しないで、いわば私達の内に眠っている非常に邪悪なもの、これが表に出てくることがありうるわけですね。戦争ってのは、それの最も明白な出現、立ち現れであると思います。
「なぜ現代文明の21世紀においてさえ、戦争を終えることができないのか。なぜ人が暮らしている場所に、非常に殺傷力の強い兵器を、しかも遠く離れたところから打ち込むというような卑怯な行為が、いい大人が何でできるのかということ」これが私の近しい人からの質問でありました。「実はそういう道徳教育が行き渡ってないためである」というふうに考える人が、世の中にはいますけれど。実はそれは楽観的すぎて、私達はそれほど高尚な動物ではない。私達はときに非常に低俗な動物以下のことをする、そういう種であるということを、まず認識すべきだと思います。そういう低俗な種であるにもかかわらず、ある種の秩序が保たれている。例えば、現在の日本では一部の無法者を除いては、人を騙すというようなことはやってはいけないことであるといって、取り締まりがある。取り締まりがあるということはそれを破る人間がいるということであって、その破る人間がいるということは、私達がやはり低俗であるということの証明であるわけですが、しかしそういう低俗な人間が少数にとどまっている。例外的な少数にとどまっているというのは何によってであるか。というと、私達の多くを占めている道徳感の優越性によってではなく、むしろそのような不道徳なこと、非人間的なこと、それを取り締まる警察の力、それを破ると留置場で一生過ごさなければいけない。そういうような刑罰があるからでありますね。
それをかつてマックスウェーバーは「権力の暴力装置」、そういうふうに呼んだわけです。警察権力というのは、私達の日常にあるそういう治安のための「暴力装置」ですね。「暴力装置」って言葉をかつて使った政治家がいて、それが自衛隊のことをそう言ったというんで、政治問題化した一部の無教養なジャーナリストがいますけれども、マックスウェーバーの言葉でありまして、言ってみれば社会科学の常識であるわけです。違反した人間に対してはそれを暴力でもって取り締まる。そのことによって、その違反者が出ることを最小限にする。これが近代国家の基本的な構図であるのではないかと思います。封建国家の時代、絶対王政の時代であれば、警察というよりは軍隊ということになるでしょう。もっと古い時代であれば、その軍隊って言っても、要するに自分たちが武士を雇って自分たちを守るっていうことでありますから、今話題のロシアの傭兵集団のように、人々が自分の安全を守るために金で武士を雇っていた。言ってみれば武士は当時の時代であれば、こんにちのヤクザのような身分で、貴族にお金で雇われていた。そしてそこで食べさせてもらう、あるいはその土地をもらうということの引き換えに、その雇い主に対して反抗してくる勢力があったならば、それを武力でもって対抗する。そういうことを売り物にしてきたわけですね。
いずれの時代にも人間の持っている愚かさのために、その愚かさが一部の人々に利益をもたらすということがあるならば、一部の人々が非人間的な行動に走ってしまう。私達はそういう情けない人種であるということ、それを踏まえて言ってみれば社会の秩序を安定化させるために「暴力装置」というのが必要なわけで、一つの国の中で国の体制が保たれているというのは、軍隊あるいは警察組織が、国家権力に対して、あるいはその国民に対して忠誠を誓っているからです。実際軍隊が権力に対して刃向かう、そして自分たちが力、実権を政治的な実権も含めて握ろうとすることをクーデターというふうに言いますが、現代においてもクーデターを起こす国々は少なくないわけですね。「暴力装置」が権力から離反したときに、権力が崩壊する。これは現代でも多くの地域で見られる現象であるわけです。
日本でも、もし自衛隊の海軍、海上自衛隊というのは正式でしょうが、それが陸上自衛隊と対立して権力を奪い合うというような状況が生まれれば、国家権力といえども自衛隊を頼りにすることができなくなるわけですから、不安に思うでしょうね。そして国家権力がそれを不安に思うときには、国家権力の転覆を狙う人たちは今こそチャンスが来た、とそういうふうに思うことでしょう。
つまり、私が申し上げたいのは、治安の維持などという聞こえの良い、耳に優しい言葉で語られているのは、実は治安を維持するための「暴力装置」が正常に機能している。「正常に起動してる」というのは、そういう「暴力装置」が「文民統制」といって、暴走しないで権力に対して従順に機能してる、ということをもってそういうわけでありますが、しかし、権力自身が腐っているときには、その権力の「暴力装置」は国民に対しては悪逆非道の装置になりうるわけですね。言論を弾圧し、人々の自由を弾圧し、人々の解放を願う人々の運動を阻害するというふうに、権力が堕落したときには、権力の「暴力装置」は自分自身が健全でない限りは、権力に従って悪逆化する、非道化するということ、これが現代でも現実に続いているわけです。
私達を取り巻く平和、それが実は何によって可能になっていいのか、ということを常に考えなければなりません。「平和を守るために、権力の暴力装置を頑健にすべきである」という楽観的な議論がありますが、権力の「暴力装置」が本当に大きくなったときには、文民統制が効かなくなる可能性さえある。そういうことも時には考えて、「国を守る」とはそもそもどういうことか。「国土の保全」とはそもそもどういうことか。「国土の一体性、これは侵し難い各国の権利である」という国連憲章が謳うにもかかわらず、それを常任理事国が無視して平気なのはなぜかということで、それは一言で言えば、国連に「暴力装置」に相当する強力な軍隊がないからですね。国連軍というのがありますが、それは通常の軍隊のような「暴力装置」として機能していないという現実を、私達は知らなければならないと思います。
United Nationsというのは言葉で言うと、United Statesと同じような意味ですね。United States ,USっていうのは、United States of America,アメリカ合衆国って言いますが、StateがUniteする。連合して統一する、そして国をつくる、それがUnited Statesでありますが、United Nations、日本では国際連合と訳されますが、本当は言ってみれば合衆国ですね、本当の意味で。全ての州を集めるという合国国、合国連邦。それがもし実現できるとすれば、その各国の上に大きな連邦政府があるということになるわけでありまして、連邦政府が各国の言い分を聞いて利害調整するというのではなく、連邦政府自身が「暴力装置」をきちっと管理できれば、各国はそれに従わざるを得ないということになるのですが。私達のUnited Nationsはいまだにそういう国家としての体を成していない。言ってみれば第二次世界大戦の戦勝国の間の戦後秩序の継続機関に過ぎないという現実。それを見つめる必要があるのだと思います。
ロシア、中国が、アメリカやイギリス、フランスと同じように常任理事国という国になっているということは、第二次世界大戦の経過あるいは結末、それを考えれば明らかでありますけれども。日本はヒトラーあるいはムッソリーニと同じように、ファシストの一つの国として、世界に対して戦争を挑んでしまったわけでありますね。このつけがいまだに私達に重くのしかかっているということを、忘れてはいけないと思います。と同時に、やはり人間の中にある理想を求める尊い心、これを大事にしつつも、実は人間の中には尊い心だけでは話がすまない醜い面がある。そしてその醜い面を禁止するためには、一種の強制力、強制力をわかりやすく社会科学的な言葉で言えば「暴力装置」、強制的にその人を閉じ込めるというような人権蹂躙でありますが、「ときには基本的な人権を奪うことによって、社会全体の安定を実現する」ということも、選択肢として入れざるを得ないという状況にある。
私達はいまだに清く尊い人間にはなりきっていないという現状、それを踏まえる必要があるということですね。
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