長岡亮介のよもやま話33「トルコ・シリア地震:隣人に対する連帯感」

 トルコ南部シリア北部というか地質学的に難しい地域で、このところ百年ほどは安定してきた地帯で起きた大きな地震の被害の大きさに、世界中の人々が驚き、国際的に多くの支援がなされていますが、まだまだ絶対的に足りない状況ではあります。しかしながら、私達も福島沖で経験したような巨大な地震が、百年に一度というようなタイムスケールでは必ず起きる、と言ってもいいくらい地球史的に見れば頻繁に起きる、という自然の現象の一つに過ぎない地震ではありますが、人間にとっては数万人4万人を超えるという話もありますが、その人々の命が一瞬にして失われる。それも自然災害によって失われるっていうこと。私達にとっては、この近代文明の時代においてもという気もするのですけれど、やはり近代化が進めば進むほど、被害がより深刻になるという、逆説を目の当たりにした思いを、改めて私はしております。

 私達は決して自然の巨大な力に底打ち勝つことはできないということ。安全基準をいかに高めたところで、人々が集中してそこで文化文明を構築していく。そういう作業を営む限り、必ずいつか私達の予想を上回る第災害に襲われるということ。これは非常に悲しい現実ですが、その現実に打ち勝つためにこそ、私達が知恵を結集し、そして被害に遭った人々とともに明日を生きるという、元気と勇気を持たなければいけない。そのためにできることを、何があるかという模索を続けなければならない。と同時に、私達はそれに決して打ち勝つ日が来るわけではないということ。自然というのは、私達に対して多くの恵みをもたらしてくれる豊かな土壌であると同時に、私達に対して予想を上回るとんでもない災害、最悪もたらす、巨大な人知を超えた力であるということ。そういうことに対する謙虚さを忘れてはならない、と改めて思わされる、この1週間でありました。

 私達の知恵と力で、少しでも被害に遭った人々の悲しみを癒すことができるよう、私達ができることが何であるか、考えなければいけない。そして、それを行動に移さなければならないと思います。しかし、大切なのは行動を起こすことであって、行動を起こすためにあれこれと迷っている暇はないということですね。

 ある意味で、それは地震の大災害という目に見える災害が起きたときだけではなく、目に見えない平凡な日常の中にも、そのように人々が大きな悲しみや苦しみに遭遇するという不条理な不幸、それに私達は常に敏感であるべきであると思います。そして、その不条理を起こすものが、もし自分の小賢しい利益のために、その不条理を利用してるんだとすれば、それは決して許されないことであるという厳しい倫理感を、改めて思い出さなければならないでしょう。私達は隣人に対する強い連帯感とともに、隣人たちの不幸を利用して私腹を肥やす、そういうような人間として最も浅ましい行動をとる人々に対して、毅然として立ち向かう、そういう厳しい倫理感も併せ持たなければいけない、とそう思います。特に、いろいろな援助が善意に基づいて行われるときに時には、その善意を自分の私利私欲のために利用する人が世の中には存在するという悲しい現実ではありますが、この悲しい現実も悲しいと言って済ますのではなく、私達はそれに毅然として戦う気構えを、常に持たなければいけないと思います。皆さんが知恵と勇気と、そして隣人に対する強い連帯感を持って、日々を過ごしてくださることを、強く期待しています。

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