長岡亮介のよもやま話23「本質的な問題」

 最近テレビなどではあまりにもニュースがつまらないので国内ニュースを見る機会は私自身減っているのですけれど、たまたまつけたときにニュースがついているとつい見てしまったりします。私は若い人には、常々インターネットやテレビで情報を得るのではなく、読書をしなさい、せめて新聞は読みなさい、と言っているのですが、そういう私もついつい手軽に情報を手に入れることもできるテレビなどに頼ってしまいます。さすがにインターネット広告にあふれたインターネットのニュースは敬遠しておりますけれど。

 しかしともかくこの数日の間、テレビで大騒ぎになっている、首相秘書官の不適切な発言についての話題で、皆さんもよくご存知のことだと思いますが、真に不適切な発言をしかも記者会見でオフレコの記者会見ということで、その発言が飛び出たということなんですけれど。その秘書官が暴言をしそうだということを知っていながら記者会見を開き、それがオフレコ、いわゆるレコーディングが禁止されてると、そういう約束のもとで発言を引き出し、その発言を騒ぎ立てる。これがジャーナリストのやることかと思うと、それもとても悲しくなります。と同時にそのような報道に接して、私達自身が、そういう人が国の中枢機関しかも国政を支えるべき秘書官という最も重要な要職に就いていた、ということにショックを受けるわけであります。そのような人しか雇うことのできない、そういう私達のリーダーにも非常に残念に思いますが、しかし、リーダーの資質が低いのは私達国民の資質が低いということの結果に過ぎない、とやはり冷静に考えると、自分自身を反省することの方が大きくならざるを得ないこの頃です。

 ところで私が今日取り上げたいのは、その発言の不適切を騒ぎ立てる私達自身の体質に関して、です。私達は、私達が足元にも及ばないくらい高い権力、権威の座にいる人がそのような失言をしたということに対して、それを騒ぎ立てて何か自分たちの立場が少しでも上がったような幻想に浸るのではないか、と思いますが、やはり権力の中枢というのはもっとがっちりしっかりしていてそのようなものでびくともしない、という現実に私達はもっともっと目覚めなければいけないと思います。そんなつまらないことと私はあえて言いたいのですが、そういうことを騒ぎ立てることによって、実は誰が得しているのか、誰がそれによって被害をこうむっているのか、とそういうより本質的な問題へと私達の思索を少しでも向けるようにしなければならないのではないか、と考えるわけです。

 つまり、権力の側からすれば、そのようなジャーナリスティックな大騒ぎ、これは全く馬鹿げていて、当面こういうことは断じて許されない。「これは内閣の方針と基本的に反している。我が内閣は従来の方針を堅持し、粛々と実行していくのみである」。こういうような綺麗事を言うだけで、話が全部終わってしまう、という現実があるわけですね。そのことの方に目を向けなければいけない、と私達は思うのです。そんな綺麗ごとを言って話を済ましていいのか。もしこのことが一人の政治家あるいは行政官の個人的な発言として出ただけであれば、私達の社会で持つ一つの弱点にすぎないわけで、大した問題ではない。

 むしろ私が問題だと思うのは、そのようないわば失態、失敗と言ってもいいですね、それを犯した人をトカゲの尻尾切りではありませんが、それを罷免するというようなかっこいい言葉で飾ることによって、発言をした人を任命した、自分の側近として任命した人の見識が問われない。問われないまま、みんな終わってしまう。そのことにより大きな問題がないのか、ということです。その発言をした人も発言をした人ならば、その発言会を開いてそういう発言を引き出して記事にしようと思ったジャーナリストもジャーナリストであるし、何とも情けない話であると思います。私はかつてUnited Kingdom、日本ではイギリスということがありますが、England(イングランド)、Wales(ウェールズ) 、Scotland(スコットランド) 、Northern Ireland(北アイルランド)、その4州からなっているところでありますけど、そこでも、またフランスでもトップの女性問題が話題となったときに、ちょっとした大衆新聞ではそのことは話題に取り上げられますけれども、政治問題になることは全くない。本当に日本から見ると不思議なくらい政治問題にならない。

 もっとすごいのはアメリカで、前の大統領その人のスキャンダルっていうのはもうスキャンダルっていうもんではなくて、これは男としてもう本当に風上に置けない、とんでもない奴だというようなことをしでかして、そのことが公になり、それを公になる前にそれのもみ消しをお金ではかろうとし、お金がちょっと足りなかったんでしょうか、そこでケチしてそれが世の中に出回る、次々とそういうことが出回る。それでもですね、実は女性票がかなり集まっているということ。日本ではちょっと信じがたいレベルであります。かつて日本の首相で、そういう女性問題で責任を取って短命内閣で終わった人もいますけれども。

 日本は本質的ではない問題について大騒ぎする。しかし、本質的な問題については誰も追及しようとしない。例えばオリンピックパラリンピックで大きな収賄事件があった。これはもう昔から当たり前の話のように行われていることで、日本だけ珍しいわけではない。そしてそれが日本でもやはり同じように行われた。というときに、オリンピックというクーベルタンが作ったときの近代オリンピックの基本的な精神に反する、アマチュアリズムに完全に違反する行為が、金儲けになるから、そしてそれが選手のためにもなるのだから選手のためにもなり、強化選手ができればそれによってメダルも増えるから、そういうような理屈でもって、本来の精神が犠牲になり葬り去られている。その本質的な問題にもっと目を向けなくていいのか、ということです。

 子供たちがあるいは若い人が、自分のこれと思う道に邁進していること自身はとても素晴らしいことです。そしてそれは、昔はその人のボランティア的な精神で行われていたから、ますます清いことでした。しかしそれが、もし彼らあるいは彼女たちの自分の将来の人生設計のための、言ってみれば経済的なプランであるとしたら、いったい何なんでしょう。どんな人だって自分の利益のために働いているんだと言えば、誠にその通りのように見えますが、しかし、そのような商業主義が行き着くところが何であるかということについて、私達は痛いほど多くのレッスンを知っているはずです。選手たちが本来体を強化すべき競技、そこにおける成績を良くするために、科学的な道理を無視して薬物に手を出す。その結果、体が蝕まれる。有名なのはドーピングというものでありますけど、私は薬物によるドーピングだけではなく、例えば、スポーツの選手がそのスポーツ競技のために集中するために読書の時間もない、あるいは思索の時間もないということであれば、これは心のドーピングではないでしょうか?

 私達は若者をある方向に追いやるときに、手を縛り縄で縛って不自由にして無理やりそういうふうにするということの他に、経済で釣る、お金で釣るというもっと汚い方法を私達は時々用いているわけですね。有名になりたいから、自分の名前残したいから、そういうふうにして選手たちが精進しているとすれば、選手たち自身は自分の愚かさになかなか気づかないでしょうけれども、長期的に見ればそれが愚かしいことは本当は明らかだ、と私は思うんですね。そういう事柄の本質を見るということが大切なのに、表層だけを見てそれを報道し、それで本当に儲かっているのは選手ではなく、選手をサポートしている会社であったり、あるいはその会社から賄賂をもらっている報道機関であったり、あるいはその報道機関を本来は監視しなければならない公共放送の機関であったり、あるいは最終的にはそれが行政であったり、そしてその最後のツケは国民の税金へと結びつくわけでありますね。

 若い人が納税意識を持つということは大変難しいことではないかと思いますが、海外とりわけ戦争のリスクを感じている韓国、台湾あるいはシンガポールの若者と話していてつくづく感じるのは、すぐ横に大国があって、自分たちの国の存続が決して100%安全というわけではない。そういう緊張感の中で育っている若者たちは、ある意味で税金をたくさん納めてるわけではありませんけれど、何か国の税金がどのような目的で使われてるかっていうことについて、日本人の若者と比べるとずっと敏感であると思います。大国の若者であっても納税者意識に関して敏感である。というのは、アメリカを引けば明らかであると思います。

 日本の若者が納税者意識があまりにも少ないのは、やはり甘やかされて育っている。お母さんお父さんが頑張って、あなたたちはお金のことは心配しなくていいからという、アジア的な美徳というんでしょうか、子供に対する無条件の愛、それを経済的な不安を子供に感じさせないという親の思い。その中で子供たちがその思いを受け止めて、父や母の熱い自分に対する期待、それに応えるっていうなら、それはまたアジア的な健気さであるというふうに思いますけど。それも理解することなく、納税者意識も持つことなく、今の報道番組を平気で見ているようではいけないのではないか。ちょっと説教くさくなりましたけれども、今日はそんなお話をしてみたいと考えました。

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