長岡亮介のよもやま話16「収賄ということ」

 今日は平凡な話題についてちょっと変わった角度から論じてみたいと思います。皆さんはアリという昆虫が、蜜あるいは砂糖に群がるという性質を持っていることをよく知っていると思います。私のように田舎で育った人間は、アリを集めるのにちょっと家から砂糖を失敬して、アリを集めたい場所にそれを蒔いておくと、瞬く間にアリが集まってきます。そのアリを捕まえて瓶の中にアリを入れて巣を作らせる。これは子供の頃、大変楽しい実験でありましたけれども、とにかくその実験動物であるアリを集めるのには、砂糖を蒔けば一発ということです。今は歳を取ってきて、そのような遊びはしなくなりましたけれども、ちょっと山に行ったときに、だらしなく甘いものを外に出したままにしておくと、瞬く間にアリなどがやってきてしまいます。

 アリが家の中に入ってきたときに、それはアリの責任なのか、それともアリを寄せ付ける蜜を蒔いた人間の責任なのか、というふうに問題を立てるという答えはおのずと明らかだと思うんです。アリが甘いものに集まるのはアリの習性、いわばアリの本能、アリの生き方そのものであり、それを否定することはアリの生存を否定することでありまして、アリに対してどのような生存権を認めるべきか、私は司法の判断は知りませんけれど、しかし、人間として他の生物をいたわる気持ちは持っていて当然で、「一寸の虫にも五分の魂」といった言葉が昔ありましたけれども、そのような儚い命を持つ昆虫であったとしても、生きているものに対する尊敬っていうのは失ってはならないと思います。そういう意味で蜜に群がるアリを責めることはできない。むしろ蜜を蒔いた人間を責めた方がいいわけでありますね。

 これはある意味で常識的に、皆さん共有できることではないでしょうか?これが今日の私の議論の出発点です。「アリがいけないのか、蜜を蒔いた人間がいけないのか」ということです。いろいろと悲しい報道が相次ぐ今日この頃ではありますけれども、最もくだらない事件、政治的な背景とか、思想的な背景、歴史的な背景で情状酌量する余地のない破廉恥な犯罪っていうのがありますね。それがいわゆる収賄ということでありますが、自分の権威を利用して利益を自分の懐に入れるという行為です。若者の汗と涙の上に、自分たちがそのような利益を獲得するとすれば、それは本当に破廉恥な行為ですね。しかし、先ほどのアリと砂糖の話に戻って考えてみたらいかがでしょうか?そういう利権が存在するという、言ってみれば、最初の前提条件に間違いがあるのであって「蜜があったならば卑しい人間はそれに群がるに決まっている」ということを私達はなぜ認めようとしないのでしょう。私は、人間は崇高な精神を持っているはずですが、しかし崇高な精神でなく、非常に卑しく自分の利益を狙ってセルフィッシュに生きている、そういう人間も人間の本質の一つだと思うんですね。本性において善であるか本性において悪であるかというような議論を展開する以前に、人間の持っているそういう多様な側面、それを認めるところから出発する方が、私は健全ではないかと思います。そのような人間の持っている卑しい側面、それを意識したときに、その人間の卑しい側面を引き出して事件になるようなことをするとすれば、むしろ「そういう収賄構造を作った人間の方にミスがあった」というふうに言うべきではないでしょうか?

 若者の汗と涙、それを自分の利益として還流させる。そういうようなことが実は日本のある種の業界の中ではずっと行われてきました。私の子供のころからそういう体質はありました。そしてそれは今でも変わりません。それはグローバリゼーションの進むこの世の中にあっても、国際的に見てもいわゆる開発途上国においては未だに根が断たれない非常に根深い問題、ということができると思います。日本は依然として文化の上では開発途上国並みなんですね、残念ながら。そして、私達は決してそういうところに高潔な精神でもって乗り込むということを、十分には知らない国民であるということを自覚しなければならないのだ、という本当に残念な感想を抱く今日この頃ですが、皆さんはいかがでしょうか?

 もちろん前向きに常に前向きに考えていきたいと私も願っておりますが、前向きに考えようとしているときに水を差される動きがあるということ、そのことにも目を向けないとやはり一面的なものの見方になってしまうのではないか、と私は考えます。いかがでしょうか?

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