正式な洋服あるいは礼装というときに使う「フォーマル」という言葉と、数学で使う「形式的」という言葉、この言葉を巡ってちょっとしたお話をしたいと思います。
結婚式やお葬式、そういう厳粛な式典に普段着で望むことは礼儀に違反することだ、というふうに普通思われています。私達はそういうときにフォーマルな服、日本ではよく礼服っていうふうに訳すのだと思いますけれども、それを身につけるのが習慣的ですね。このような習慣が定着したのはいつからのことであったのかよくわかりません。少なくとも「西洋式の洋服が礼服だ」というのが江戸時代以前にあったとは当然思えませんし、鹿鳴館の時代などその頃の服装を見ると全くおかしい。私達がちょうどプッチーニのオペラ蝶々夫人を見ているときに、蝶々夫人の服装に、全く日本文化を理解していない西欧人の日本の着物姿を見るのと似た感情を、あるいは似た印象を持つに違いない、そう思うわけです。したがって、礼服、フォーマルと言っても、「私達がそれを文化や伝統の中でしっかりと身につけない限りは大変おかしいなものになってしまう」ということをきちっと踏まえないといけない、と私はまず第一に思います。フォーマルなものというのは形だけのものであって、形がいくら整っていても中身を伴っていなければ、それは滑稽でしかないということ、これがまず押さえたい第一の点です。
他方で、実はフォームというのはとても大切なものである、という反対のことをお話ししたいと思います。いろんなスポーツでは基礎的なフォームを作るということが練習の大切なメニューになってると思うんですね。どんな球技であっても、あるいは球技以外の全てのスポーツでもフォームというのは大切でありまして、フォームだけ一人前になったところで一流の選手になれるわけではない、というのもまた確かでありますけども、フォームがなってなかったら話にならないということがあります。
私達はある意味で、フォームを身につけるということが、その競技において一応基礎的な技を身につけるためのまず第一歩であるということ。そういう点でフォームを身につけるということは大切なことであるわけですね。そんな意味でフォーマルである、形の上から入るということも大切であるわけです。ただしその場合でもやはりフォームは所詮フォームに過ぎなくて、フォームを身につけるだけでは話にならない。しかし、同時に私達は「フォームを身につけることそのものが意外に難しいことなんだ」ということに対して謙虚でなければならないと思うんですね。フォームを身につけるための練習、私はあまりよく知りませんが、ピアノの練習曲のようなもの、バイエルとか言われるようなものでさえ、実は一流のピアニストになるための最初の課題であるわけでしょう。
私が申し上げたいのは「勉強にもフォームがある」ということです。しかしながら多くの人が「フォームを身につけるということが勉強の最終目標」と誤解している。フォームを身につけることが最終目標となってしまっているという、そういう間違いについても指摘したいわけですね。それは最初に言った、フォームは所詮フォームでしかない。フォーマルであるということは本当に礼儀作法にかなうことではなく、礼儀作法のための言ってみれば「いろは」に過ぎないということです。やはり心を込めて礼を尽くすということに対して、「形式的に礼儀を重んじる」ということは「型」でしかないわけで、そこに本当の心がこもってなければ意味のないものであるのと同様に、勉強においてもスポーツにおいても、単なるフォームでは意味がないということです。
数学では、フォーマルという言葉は大変大切な意味を、ときに担っておりまして、皆さんは数学を考えるときには公式に従って考える、というふうに誤解している人がいるかもしれませんが、数学における「公式」というのは「数学の中身がわからない人でもそれに従ってやれば答えが正しく出せる」という言ってみれば「機械化された知識」、それが公式って言われるものですが、その公式自身は数学を知らない人にとってはとても有用だと思いますが、数学を勉強する人にとっては、それは言ってみれば通過儀礼というか「そういう公式も一応あったな」という程度の意味しか持たないわけですね。
しかし数学においては「あえて意味を考えずに公式的に考える」ということに重要な意味があるという場面があるんですね。これが数学のまた面白いところです。数学は常に意味を求めて考え続けなければいけない、そういう学問でありながら、時には意味を考えるということをあえて止めて、それを方法論的に放棄して、意味を考えずに形式だけに注目するという、数学の見方というのがときに必要であるわけです。
フォームという言葉を一つとってみても、実は意外に奥行きが深い、あるいは奥が深いということについて、今日はお話しいたしました。
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